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2009年10月24日 (土)

ケインズとハイエク

この本を読んだのはト-マス・ウッズの『メルトダウン』という本を読んだ時に、オーストリア学派の考え方がなるほど~と思えたからです。

オーストリア学派は以前『エンデの遺言』で扱われており、またシルビオ・ゲゼルが研究した地域通貨について興味を持ったことがあり。
何かこの先の経済のヒントがそこにはあるんじゃないかと考えています。
さてこの本で、何がなるほどだったかといえば、景気を良くする、若しくは不景気のをくい止める為に政府が介入すること・・・実はこの策を講じれば講ずるほどに景気を悪化させてしまうというもの。簡単に言うと、自然にまかせるのが一番。
な ぜかといえば生物と同じで、企業も実力がなかったり、適応能力がなければ潰れるべき。もともと潰れる要素のある企業に融資などしても結局倒産することが多 いし、延命すればするほど傷は大きくなり倒産時の社会的な ショックも大きくなってしまうことが多い。こういった景気対策の例として、1930年代に米国ルーズベルト政権下で行われたニューディール政策 (・・・これは世界恐慌から脱するために、公共事業に中心に行われた経済政策。、オバマのグリーン・ニューディールという政策のルーズベルト大統領が行っ たニューディール政策を再び!というもの)がある。これは政府が公共投資して助けてやるぞ!ということだったわけだけど、結果的にニューディールで景気は よくならず、後の朝鮮戦争が好況を生み出しました。。
余談ですが、このニューディール政策・・・当時ソ連がものすごい成長をしてきた為、米国内でも社会主義勢力が大きくなりそれを抑える為に行われたという裏があるそうです。
もっ と身近な事例としては、バブル後の日本はなぜ10年以上もの間不景気が続いたのか?も納得の説明ができてしまいます。日本の場合は、ダラダラと延命措置が 続けられ、本来淘汰されるべき崖っぷちの企業がいつまでたっても生き延びた。結局崖っぷち企業の多くが倒産していくのだけど、順繰りとパタリパタリと長引 き、いつまでたっても毒出しが終わらず景気が底を着かないという状態がが延々と続いた為なのだそうです。

グ リーン・ニューディールは環境問題を解決しながら関連産業を中心に支援し、景気や雇用を回復していこうというものですが、同じように日本も景気が悪くなる と政府が公共投資せよと言う論調が強くなります。これは公共投資をすれば、社会にお金が回り結果的に投資額の何倍も の経済効果を生む為、多くの人が助けられるという話で、ケインズという経済学者が示したものです。(この辺りに興味のある方は小室直樹さんの経済の本をお ススメします。)なので、景気が悪くなると財政出動だ!今こそケインズだ!の合唱が起きるのです。ケインズは無駄な公共投資はすべきでないと言っています が、その辺は吹っ 飛ばされて「ケインズ=公共投資」みたいになっているのです。
少し話がわかりにくくなっています が、要はケインズは大きな政府というか政府がきっちりと計画的(社会主義という意味でなく資本主義の範疇で)な政策を行うべしという人です。ケインズの生 きた時代は世界経済が荒れていた20世紀初頭ですからそういった背景で政府がきちんと枠組みを作っていくというのはそれで至極当然ともいえます。

一方で、小さな政府を唱える人たちがいます。大きな組織は権力を生むし、効率的でないのだから政府は最低限のルール作りをすればよい。そういった考え方の 筆頭格に上げられるのがハイエクです。そもそも人間の理性で考えられる範囲には限界があり、計画的なことをしたとしてもそれはあまり意味がないという考え 方です。ただハイエクは理性と違うもう一つの人間の能力、倫理性を信じています。古い考え方といえば古いかもしれません。
古典派経済では「見えざる手」が経済を動かすので、どうしようもないとよく言われます。このとき「見えざる手=欲望」のように言われますが、古典派経済の 時代には「見えざる手=(欲望+倫理・道徳)」だったこと忘れてはいけません。その後暗黙の了解だった倫理・道徳の部分はどんどん縮小していったのは皆様 のご承知の通り。だからハイエクはあえてそういった部分を言うわけです。

この『ケインズとハイエク』は自由について2人の経済学者のフィルターを通して自由とは何かを問うた本です。
著 者の間宮氏は、全く異なる自由を掲げる2人だけれど通底するものがあり、2人には現状の自由に対する共通する認識があった。それは自由というものが自由と 行くもので内側から瓦解してきているというもの。そして2人は違った方面から自由について考えた。ケインズは乱れた社会にから自由を護る為に画的な経済の 策を考え、ハイエクは仕組みで縛らず、人それぞれの内側に倫理的な部分こそ大切であると、精神的や哲学的なところから考える。

長々書いているけど、本題はここから。
なるほどと思った記述があった。
自由には「消極的な自由」と「積極的な自由」があるということ。前者は不自由なことを挙げて、そのコントラストで自由を描く、一方後者は「俺たちの自由は☆☆だ〜!この自由を勝ち取るぞ〜」みたいな感じ。ハイエクの自由はこの「消極的な自由」。
消 極的という言葉にあまり良いイメージを持たないかもしれませんが、ちょいとお待ちを。気持ちを落ち着かせてイメージしてみてください…スポットライトをあ てたような「これが自由だ!という自由」はありえるのか。自由か不自由かみたいな世界観そのものが不自由なのではないでしょうか?
つまりは消極的な自由というのは自然な考え方なのです。

以 前に神を直接定義することはできないと書きました。神はというかそもそも言葉は相関関係の相互依存によって成り立つわけで、例え黒色といったって宇宙飛行 士毛利衛さんの話では、宇宙の黒色は地上の黒より黒いそうですし。だから自由もそう、定義はできない。定義するとすれば、それは誰かの考え方が作り出した 積極的な自由。
確かに積極的な自由というものに人びとはひきつけられることもある。でも、自由も定義してしまうことで 影が生じる。それは小さな部分では完結した自由であって、全体を考えた時にはその小さな部分の利己的な自由でしかなく、必ず外界をを排斥することとなり、 いずれそこに争いが生まれてしまう。全ての人にとっての自由は定義できないけど、消極的な自由の中にずべての人にとっての自由がある。ハイエクの考える自 由はそんな自由。

そしてふとつながったのが、消費について。同じように「消極的な 消費」と「積極的な消費」ということがいえる。前者は買わなきゃいけないから買う、若しくは買う必要がないから買わないという消費。一方後者は、必要の有 無に関わらずとにかく買う。欲しいと思ったら買っちゃう、買わされちゃうということ。ピンと来なかった人も消費の場合を考えるとこの消極的な○○という考 え方を理解してもらえると思う。と同時にこの消極的という考え方は極々自然なものであることもわかると思う。
モノを買わなくなって、経済が落ち込んでという言い方は根本的に間違っていると思う。バブルのような積極的な消費の幻想をいい加減に忘れた方がよい。不況不況と言われながらも、必要なものとは別に心を満たすものであれば高価なものでも売れている事実もあるわけで。
消極的な選択というと後ろ向きなイメージを持つかもしれないけれど、買い物なら必要な状況に迫られているから買う、という動機に自然と納得しながら、その 時の買い物を自分なりの満足を得るカタチで行われれば良いと思うのです。この自然な形で社会の経済が循環していくことが皆の幸福につながっていくのではな いかと思います。

『幸福の方程式』の紹介をした時に、最後の最後に書いて消したのだけど、やっぱり書く。
よく、意味のない仕事はない。無駄な仕事はないと言われる。はて本当にそうなのか?
幸福の5大要素を満たすのが仕事であると『幸福の方程式』には書いてあった。確かにその通り。だけどなぜ仕事で苦しむ人がいるこんなにいるのか、悩む人がこんなにいるのか。
言ってしまえば無駄な仕事、意味のない仕事があるからだと思う。売らなくていいものを売る仕事。なくてもいいサービスをする仕事。その仕事すべてが無駄と 言い切れるものは少ないかもしれないけれど、仕事の中そういった意味のない部分は多分にある。多く仕事人たちは、それをわかりながら働かざるを得ない人々 がとても多いと思う。だからと言って仕事をどうのこうのとはいわないけど無駄なもののが溢れる世の中では、実質無駄な企業は多いはず。

こういったことを踏まえてこの先を考える。また、自分が何を作っていくかと考える。
本当に必要とされっるものを作ること・・・というより、必要なものがあるときそこに僕の作るものが目に留まる。
あ、いいな。これにしよう。
そんな感じで自然と手にとってもらえるようなものを。


エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」自由地と自由貨幣による自然的経済秩序

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