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2010年7月

2010年7月29日 (木)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その3

● 属性と自分らしさ

人が求める属性と社会が与える属性にはズレがある。でもいつしかそれを
基準に人は属性を求めていく。

僕は以前ハッとしたことがある。
自分を見失って、悩んで、息詰まっていた時ある人にこう言われた。
「自分の好きなようにやってみなさい」と。

そのあと、しばらく自分がやりたいように行動してみた。でも何か晴れな
かったし、満たされるものがなかった。
好きなようにやっているのに、開かれないし、自由にも思えない。
その時立ち止って考えた、そしてわかったのは「自分の好きなようにやっ
てみる」という中で、自分というものが殆んどが実は「世間」だったとい
うことだった。
この得体の知れない、大きく朦朧とした薄光りする「世間」というものを
自分から除去する作業はしばらくかかった。捨てるべきとわかったことで
もあっさり手放せない。
会社員、サラリーマンということに嫌気が差しながらも、実はそうである
ことに安心している自分がいたことにも気付かされた。
やりたいことを考える時に、「収入」ということをかなり重要視してい
ることにも気付いた。
自分が素敵だと思えるというより、社会的に素敵と思われていることを追いかけていることに気付いた。

このセケンという境界の重ね塗りの畦道には、属性というポイントが点在して、人はそこにおいてあるリボンを一つ一つ集めていく。
でもそんな集めねばと思って集めた属性は、いつまで自分の属性であり続けるのだろう。自分が求めた属性は、脆い、それが世間の産物であれ尚更脆い。

属性に含まれない、或いは属性とされないといったもののに本当のみるべきものがあるのではないか。
いきなり飛びついて得たような属性はあまりに脆弱で・・・そう思う。
人が求めてるのは、不安をきっちり通過したものであったり、日常からであったり、わかりやすく言えば、
私は○○でない、△△が苦手だ、自信がない、不安だ・・・こういったもの積み重ねの方に、人々が得たい本当のものがあるのではないかと。

あえて・・・言ってみました。

佐藤雅彦さんは、今回の展示は楽しむんじゃなくて、大きな疑問を抱えな
がら家路について欲しい、と話していました。
“これも自分と認めざるをえない”この言葉に隠されたものは何か、ぜひ考えてみてください。

(終わり)

※ 体験型の展示が多いので、人が少なそうな時に行くのをおススメします。

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2010年7月28日 (水)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その2

● 属性を求める人、属性に当てはめる社会・・・属、族、俗

人は心身の居場所を求める・・・属性を多く持てば持つほど、わかればわ
かるほど安心する。
自分のことを理解できないことは不安で仕方がない。
人はこうした属性を持つことを望む。
自分を知り、他人との違いを知りたがる。

男/女であること
結婚していること
サラリーマンであること
仕事が○○であること
肩書きをもつこと
年収が△△万以上であること
趣味が○○であること
個性があること
夢があること
目標があること
**座
血液型は#型
車は△△に乗っている
お洒落な○○を持っている
・・・

一方、社会は人々を属性で分類したがってる。
今回の展示では、入場後すぐに身体を計測する(数値は公開されな
いのでご安心を・・・)。我われ鑑賞者は最新の機器によってデータ化された身
体や動作の特徴
を属性として分類される。ここでの身体データはインスタレーションで使
われるので、計測された方が展示を楽しめるわけで・・・。

今、googleは検索ワードから人の興味を属性として分析して、ネッ
ト画面にしょっちゅう出てくるgoogle adにいかされている。
googleが社会の塊がその瞬間(とき)に何に関心をもっている
かを分析しているけれどしtwitterはつぶやきのタイムラインから
個人の思考の偏りや考えの変化を分析している。映画好きがtwitter
でどんな状況で映画を見ているのかつぶやく、どんなジャンルの映画で、
何処で、何を飲みながら、何を食べながら、誰と・・・それが昼なら、夜
なら、夏なら、冬ならと・・・。

展示の中に鑑賞者が何を見ているかわかるというインスタレーションが
あった。何を見ているかということは、何に興味があるとか、何を考えているかと
か、といった思考をスキャニングするのに近いと思う。
そのうち、動作や表情からだけでも何を考えているかがデータ化されるよ
うなことが起きてしまうだろう。
属性を明らかにすることで、人の思考をお金に結びつけることにな
る・・・だから何処までも研究は続く、たぶん行き過ぎるところまで。

その昔、経済学でお金に換算できないものが3つあるとされてい
た。
それは「労働(≒人)」、「土地」、「貨幣」
今は当たり前のように土地は売買され、貨幣にも価格がつけられ取引され
ている。
マルクスは「労働」つまり人という価値を基準に経済を論じた。今となっ
ては正社員という雇用形態は減り続け、企業側が責任を持たずに融通のき
く派遣やバイトばかりが増えていく。これで労働者の身体は確実に不安定
になった。さあ、この思考の属性を分析するということはどうなるのだろ
う、人は消費者として労働者として益々ばらばらで不安定で、市場にとっ
ては益々融通のきく存在となっていく・・・いつまで続くのか、何処で均
衡してくれるのか。

(続)その3へ

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2010年7月27日 (火)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その1

21_21 design sightで始まった佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と
認めざるをえない”展」ならびにそのオープニングトークに行ってきまし
た。

● 人は意外と自分に「無頓着」?

佐藤さんの話は「属性」をテーマに行われました。
いくつか興味深いことはあったのですが、その中の一番心の残ったことを
書きます。
それは、『人は意外と自分に「無頓着」である』ということ

魚や四足歩行の動物は、自分が存在することは知っているけど、自分の姿
を知らない。自分の群れ他の生き物を見ることが、己へとつながってい
く。
動詞で考えると、自動詞しかない・・・「歩く、泳ぐ、食べる」。

一方、人間やチンパンジーは二足歩行で手を自由に操る。視界に入る自分
の手の動きを通して自己の姿や存在を認識する。
動詞で考えると、他動詞もありえる・・・「食べさせる、殴る、運ぶ」。

鏡を鏡と認識できるのも手を操れる人間やチンパンジーなんだそう
で・・・
この展示のインスタレーションで自分の写らない鏡がある。
でもその状況を読み取りながらも、その鏡の前に立っても違和感をあまり
感じない。

これは魚や四足歩行の哺乳類からのDNAなのであろうか。
人は、自分の姿を見ることより、人を見て自分の存在を確認しているということなのかもしれない。
つまりは、自分の存在を確認するきっかけは常に他者にあるということな
のだろうか。
たぶん他者を見て、自分との違いを認識して初めて自分の存在を知
る、アイデンティティを認識しているのかもしれない。

(続)その2へ

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2010年7月10日 (土)

「能の雅(エレガンス) 狂言の妙 (エスプリ)」展 ・・・もうNO!なんて言わない

原研哉さんも、深澤直人さんも、有名なデザイナー方々は日本の文化に詳しいですよね。
僕の好きな建築家・村野藤吾も和風をやったら最高だった・・・しかも創造的に進化をさせて。
若い頃は、西洋にカブレまくっていたけれど、年をとるにつれ、日本のことが知りたくなってきます。
というよりもこの避けられないグローバリゼーションの波動の中で、日本人というアイデンティティをどれだけもてているのかという不安さえ覚える。
まだまだ僕が知らない、そして知りたい日本の文化、その一つが能です。

ということで、サントリー美術館で開催中の「能の雅(エレガンス) 狂言の妙 (エスプリ)」展を見てきました。

能や狂言は興味は有りつつも、食わず嫌いでした。
僕のレベルとしては、NHKでたまにやってる能?狂言?(・・・判別すらできない)をしばらく眺めるも、意味不明で挫折。
といった程度。

今日解かった知識としてはこんな感じです・・・・
能も狂言の起源は、奈良時代に中国から伝わった散楽(さんがく) と、
豊作を祈る民俗芸能の田楽(でんがく)や、
物まねをする猿楽(猿楽)などが混ざり合って生まれたそうです。
その後、能は上流階級の娯楽として、狂言は庶民の娯楽として分かれていったと。
内容は能は悲観的なものが多く、狂言には笑いがある。

あとはよくわからないので、感じてきました。
能の装束は絢爛豪華、一方狂言のそれは質素。
能の羽織の模様は殆んど刺繍(・・・気の遠くなるようなスゴイ刺繍)だったり、
金の箔を貼っいたりまさに雅。
一方狂言の羽織の柄は庶民的な染めで、派手さもない。

面白かったのが、能の小道具。
和太鼓を載せる台や、車輪のついたリアカーみたいなものがあるのだけど、
竹細工みたいなもので輪郭だけを作ってある・・・。
つまりは、後ろが透け透け。
・・・今はもちろん使い回しだけど、その昔は毎回作っていたそうです。

道具や装置が少ないし、それらも仮設のようなものばかり。
あとは動きや仕草で表現するということのようです。
きっと場所を転々を移動していた名残が、そのまま形式となったんでしょうね。
でもこんな仮設のまま形式にしてしまうのって、どこか日本的な方法のように思えます。
西洋と違って威風堂々でなく、未来永劫といった感じではなく
どこか不安定で、アウトサイダーな感じが気になる。

最近は松岡正剛の弱さの考えや、網野善彦が描く日の当たらなかった歴史が気に入っているだけに
余計にそう思う

日本の芸能って、落語なんかもそうですが、少しの小道具だけで、色々なものを表現する。
前提を共有しているからこそなわけで、逆に言えばちょっと敷居が高いかな。
予備知識をもって能や狂言を観たらきっと奥深いんだろうなぁ。。。

少しずつ勉強してみよ。。。

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2010年7月 8日 (木)

martin 琉球シリーズ第一弾・・・ヌメと絣の名刺入れ

那覇のお店に置いていただけることになり、その商品として
琉球の布地を使った革小物を作るという課題に取り組んでおります。

布地の沢山送っていただいたもののアイデアが浮かばず。
やはり悩むのが、
空港の土産物のような、ベタなものにはしたくないし、
新奇さを追求しすぎて、布地を活かせないのもよくないし、
・・・ということ。

とりあえず第一弾として、名刺入れを考えて、作ってみました。

ベースはヌメ革です。

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あけるとこうなってます。
紺色の絣をV字に配しました。

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布のもっている良さというもは、その一枚を折ったり重ねたりすることで生きてくると思います。そうすることで、平面から奥行きが生まれる。

いくつか名刺入れを作ってきましたが、左右対称のものはどこが間(ま)が悪い。
この感覚は日本人の遺伝子なのか・・・わからないですが、
今回は非対称で作ってみると、名刺入れという小さなスペース良い間がうまれたように思います。

名刺はこんな感じで入ります。
右側はカードを入れにくそうですが、すんなり入ります。

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martin 琉球シリーズはまだまだ続きます。
品質も向上させないと・・・

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2010年7月 1日 (木)

逝きし世の面影・・・POST FOSSILへといざなうPRE FOSSILの江戸

POST FOSSIL展というのがあったことは前にブログで書いた。
それ以来POST FOSSILについて考えている。

POST FOSSILつまりは化石燃料時代の次・・・おそらくここにはポスト大量生産、ポスト環境汚染といった意味が込められているのだろう。これまでの消費構造、物質至上主義、金融至上主義を超えた時代こそがポストフォッシルの示すものなわけで。

日本史の中でも幕末から明治はとても人気がありますよね。
開国して文明開化で一気に近代化を進めて、そのおかげで経済大国とまで言われた今の日本がある…。

でもその日本は今大きく傾いてきていて、日本はどうなる?景気対策は?と不安感が拡がりと日々論争が起きている。
そんな今、読んでもらいたいおススメがあります・・・デザインの本ではないけれど。

その本とは、渡辺京二著『逝きし世の面影』です。

この本は、幕末から明治にかけてて来日した外国人よって残された日本に関する記述により構成されています。
読んでみると江戸時代のイメージ、日本のイメージが変わります。
外国人のレポートをまとめたものですので、そこに今後の日本がやるべきことなど書いていません。ですが、ここに描かれている江戸の生活習慣、考え方、労働、教育、社会、性差別、格差…には次なる時代にすべきヒントが沢山あるように思えます。

そして、この本でハッとさせられるのは、今の私たちの中の「西洋」です。日本の歴史の数多くは明治で断絶し、西洋ベースに書き換えられていて、その延長線上に私達はいる。
例えば、日本の社会は男尊女卑や女性の社会進出が遅れていると言われているけれど、これらは元々日本には無く、実は西洋化に伴い、組み込まれていったものだとわかる。他にも性と裸体についても日本には独特な考え方があったし、貧しくても不幸ではなかったとか。

日本人は西洋と違う考え方ができる。例えば、世界では「安さ=粗悪」が常識の中、安くても良いものを作る日本人。子供と大人の境界があまりないとか・・・。親は叱らず奔放に育てているのに礼儀正しい日本の子ども。
崇高な愛という概念を掲げなくとも、家族愛や子への愛情があった日本。

一番ガツンとやられたのは、西洋の人が驚くほどに、日本人ほど陽気で自由だったということ。陽気で笑いが絶えなかった人々が、いつからこんなにメランコニーになってしまったのだろうか。

F.A.ハイエクは共有する前提つまりは習慣や文化が多ければ多いほど、そこにいる人々の感じる自由は大きくなるといっていた。このことを読んだ時、日本にこそ自由の国となる条件が揃っているのではないかと思ったけれど、既に江戸時代後期はそんな社会だったわけだ。

具体的なPOST FOSSILを描くことはできないけれど、PRE FOSSILを覗くことは大きな教訓を与えてくれると思う。
おススメの一冊です。

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