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2010年9月

2010年9月23日 (木)

『めがね』

Photo


何も無い島の
いや、なくもないのだけど
何となくそこへ集う
黄昏たちの
ナントナク

あるものを楽しむ、
在るも無いもないのだから

まったく何もしない時間に
意味が在るとか無いとかない

せっかくなら、みんなで楽しみ
せっかくなら、みんなで食べる

お金はあっても
あっても無くてもなく

数字はなくても
感覚があるじゃない

そんなことふと気付かせてくれます。
こんな現実たぶん無いのだけど
そんな仕掛けが実に自然に
ジワリと効くように散りばめられていて
自分が見失った影を浮かび上がらせてくれます。

何かで埋めないと、
意味で埋めないと
自分はなくなってしまうのではないかと
焦せる自分に、
焦るという生き方が、
大人なのだろうか

でもそれが現実というのが
大人ということなのだろうか

バウマンの話にも通じますがね

※ 『かもめ食堂』と同じくに食事がおいしそう

(Amazonより)

何が自由か、知っている。

たそがれどきを迎えるすべての人へ。
『かもめ食堂』のスタッフとキャストによる、一瞬のようで永遠のような、たそがれどきの物語。

<キャスト>
小林聡美
市川実日子
加瀬亮
光石 研
もたいまさこ

<スタッフ>
脚本・監督:荻上直子
主題歌:大貫妙子
企画:霞澤花子
フードスタイリスト:飯島奈美
スタイリスト:堀越絹衣

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2010年9月20日 (月)

テレビとマスコミとネット・・・apple TV とgoogle TVにみる可能性

僕はマスコミがあまり好きではない。
日本のマスコミは力が強すぎる。マスコミの役割は強いものに立ち向かう、真理を追究するというところにあって欲しい。
素直なのか他人任せなのか、新聞やテレビでそれなりの肩書きをもった人が話すことをすべて正しいと思っている人が多過ぎる。
民主主義は一人ひとりが考えて初めて成立するにもかかわらず、政治や経済について考えることはすべてマスコミに丸投げ。
政治というのは自分が肌で感じる部分から考えていくのが良いのだと思う。そこから入って、互いに意見を交換させながら、形にされるべきだと思う。
そうしないと流されるままになってしまう。

僕は小沢一郎さんに総理をやってほしかった。
あれだけ政府とマスコミが袋たたきにする(つまりは恐れている)小沢さんがどんな政治をするのかが見たかった。
テレビの討論でも管直人さんは手段は知っているのかもしれないけど、首相として求められる政策について自分の意見を持っていないことが明らかだった。
小沢さんが根本的なところから考えているのに対し、菅さんはこれを言っとけばこの場は何とかなる、そんなことばかりだった。
代表戦当日の演説も酷いと思った。
小沢さんが自分の言葉で政策を語ったのに対して、
菅さんは民主党の遺伝子は素晴らしい、民主党は開かれている、みんなで頑張ろう見たいな事を言って誤魔化した。
こんな大事な演説でボロが出るから政策の話はナシにしよう、何て人に日本は立て直せない。
それでも菅さんは勝てた・・・有言実行内閣なんて、よく言ったもんだと思うけど。
この代表戦だってマスコミの小沢一郎滅多打ち作戦をした結果、党員サポーター票が管サイドに集まったからで。

最近出ずっぱりの池上彰さん。彼のの解説はわかりやすいけど結論を言わない。僕は池上さんが結論を言わないことに好感を持っている。
わかりやすく解説してくれて多面的な材料を用意して、さあこの後は自分で考えてみてください、というのは本来のマスコミの役割だと思う。
池上さんとしては、マスコミの本来のあるべき役割を果たしたいという気持ちもあるだろうし、
本当によい結論を言えばマスコミから干されてしまうということをよく承知しているからなのだと思うけど。

新聞の発行部数は減り続け、テレビも広告収入が入らず質が下がり、若い世代を中心にテレビ離れが進んでいる。
地デジへ移行する際に、電波方式と光ファイバー方式が考えられていたという。
決まったのは勿論電波方式。光ファイバー方式はなんだったかというと、NTTの光ファイバーがだいぶ網羅しているから、未開設の場所にプラスアルファするかたち。
でも何故か・・・、だいぶお金のかかる電波方式になった。

今年の3月15日から東京や大阪のFMラジオ、AMラジオがネットで、その後5月からiPhoneでも聴けるようになった。すごく便利だ。
建前としては、電波環境が悪くラジオの聴きにくい聴視者のためのサービスとなっている。
これは電波を管理する総務省への言い訳。勿論本音はテレビ以上に広告収入減に悩むラジオ業界が電波に縛られていては死活問題になるから。
確かにラジオは音声データなのでで映像データだいぶ小さい。
でも、PCやスマートフォンに載せるソフトを無料配布するだけでデジタル化できちゃった。

最近誰もが感じているのは、テレビプログラムの質の低下
団塊の世代あたりはテレビを見ることが生活の一部として染み付いているし、
バラエティは見ないまでも、ニュースや報道は見る人が多い。
せっかく来年2011年7月から電波方式による地デジが始まるけれど、

ジリジリとネットとテレビの接続の環境が整ってくる。
環境面では光ファイバーのブロードバンド化はますます進んでいるし
無線のネット接続もWIMAXが始まっている。
そしてコンテンツとしてはapple TV とgoogle TVがそろそろ本腰を入れてくるようだ。
SONYもはじめからgoogle TV機能を搭載したものを発売する
(Google、テレビ向けプラットフォーム「Google TV」発表 ソニーと提携)

これまでテレビというマスコミは、政府と新聞社系マスコミと大企業の既得権益が頑丈な一枚岩になっていた。
でもそれが、崩れるつつある。

政府が電波を管理することから解放される。
PanasonicやSONYはテレビを売りたいとすればネットとの接続を急ぐ。
ネットからのコンテンツが増えれば、テレビの画面上での大手マスコミの重要性は減る個人でもUSTREAMEで発信することができるわけだし、情報発信は質を争うものになり、決してマスである必要はなくなってくる。

そして、情報の選択性が高まり
是が非でも多様性の時代がくる
情報から、もう少し民主的な社会が来るかもしれない。
それが政治や経済へと波及していくことを望みます。

Apple TV対Google TV、勝つのはどちらか
新しいApple TVは大きな野望への第一歩か?
Google TV、来年世界へ Chrome OSタブレット計画も

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2010年9月19日 (日)

【book martin 41928】 002 立川武蔵『日本仏教の思想』

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これは書評ではなくて、僕martin(マルタン)が知りたいことの周辺を彷徨うようなもので、自分なりに要約したり時には付け加えたりしながら連想ゲームのように思い浮かぶことをツラツラと書いている。

なぜ仏教について知りたいのか。まず一つは、日本で生まれたものとして、日本の本質を捉えたいというから。本質とは何かといえばキワ(際)に見られるようなことで、境界に入り込むことだと思う。だから前回の「空の思想史」でも、今回取り上げた「日本仏教の思想」でも、日本に伝わったときに何が切り離され、何が付け足されたか或いは何かと融合したか。また飛鳥・奈良・平安・鎌倉・・・とどのように代わっていったかに興味がある。そこには松岡正剛さんのいう【日本という方法】があるはずだから。本来この作業には、中国やインドの仏教であったり、特に中国での仏教から何が抽出されたのか中国での空つまり無や、華厳思想、儒教などとも比較しなければならない。
2つ目、いよいよ行き詰ってきた西洋の論理的なものと違った思想について知りたいということ。今の経済、特に大資本を中心としたグローバル・スタンダードに基づいた論理的、合理的、功利的な社会から脱出する方法、そのヒントを掴み取りたい。
そして3つ目、祖母が宗教者であったこと。僕は彼女の活動に馴染めなかった…ついに昨年他界(成仏?)した。祖母と孫という関係で沢山の愛情をもらったからか、自分なりに仏教を理解したいと思う。実践無き仏教はどう頑張っても半分にもならなけども。彼女が時に厳しくときに優しく説法をし、お経をあげ、物凄い気迫で魂の力を振り絞るような加持や祈祷をしているのを目の当たりにしていた。
実際僕も小さな頃、たくさんお経を読まされた。集団であげるお経は不思議な雰囲気が漂う。どこの誰それさんが大手術をするとなれば、陀羅尼というお経を永遠と猛スピードであげる。僕は嫌々接していたものだから宗教の実践的な体験というものは殆んどない。けれど、お経をあげているときに何とも気持ちが落ち着く感覚はあった。
僕はその中に入りたくなかった、今でもそう思う。けれど、祖母が半生のすべてを捧げた仏教とは何かと思う。

さて立川武蔵著「日本仏教の思想」に話を移そう。
今世界の成長が止まりかけて、改めて自然と再び共生していこうという流れが生まれてきた。でもそもそも日本はアニミズム(自然崇拝)の土壌があった国だ。明治以降の欧米化に伴って西洋の論理ばかりを信奉し、あまりにラディカルな方法ばかりとってきた。気付けば足元はどろどろで、どうやって立ち上がればいいのだろう。「ハンバーガーのサイドメニュー」化、「まわるテーブルにのる」化、梅干おにぎりからやり直すのか。
この本はもちろん日本に仏教が伝来したところから始まる。その時に日本(日本は存在していないので正確にはヤマトか)のベースとして受け皿としてあったアニミズム。アニミズムというベース(OS)があって、その上に仏教というソフトがのっかった。

立川さんは日本仏教のキーワードとして以下の4つをあげている。
1). 諸法 
2). 空(空性) 
3). 実相 
4). 仏性
諸法は、今僕らが生きているこの世界のこと。空と実相はセットで空は徹底的な否定のあとに現れる真理であり、実相はこの世のありさまが真理を表わしていると肯定する側。最後の仏性は、生きるものすべてに潜在的に備わっている仏になる可能性のことである。
この4つのキーが、アニミズムをベースにのっかって日本の仏教の特徴となる。

日本に仏教が伝来したのは西暦538年と言われている。その後6世紀末までにかなり大きな勢力となる。飛鳥時代に重要な役割を果たしたのが聖徳太子(574-622)。彼は高句麗の僧慧慈より学んで、中国僧の使用する仏典を理解するまでになっていた。太子は606年に推古天皇に「勝鬘経(しょうまんぎょう)」と「法華経」を講じたという記録があり、この「勝鬘経」は如来蔵思想の経典として知られている。如来蔵思想とは先の4つのキーワードの一つ「仏性」を人が本来備えているものだとする。この如来蔵思想が日本仏教の特徴として通底し、後々この問題について道元が思索している。

今年、平城京遷都1300周年で話題となっている奈良。710年の遷都以降の長岡京に都を移す784年までの奈良時代は、国家の統制のもと南都六宗が発展した。南都六宗とは三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗で、これらが独立していたというよりそれぞれが科目のようであった。律宗は規律のようなもので、三論宗(中観)、法相宗(唯識)がインドの大乗の2教、成実宗(経量)と倶舎宗(有部)が小乗の2教で奈良時代にはインド仏教の4教がすべて日本に来ていた。華厳宗は中国を代表する教学で、否定が強かったインド仏教に対して肯定する面が強い。また聖武天皇はこの華厳の教えには全てのものを一つにする傾向があったため、政治的にも利用をしている。
インド仏教とチベット仏教は否定面が強く、中国と日本では肯定の面が強い。日本にはアニミズムがあって自然から与えられるものが多いからこそ肯定が強い。でも中国はもう少し違う意味で肯定側にいて、それは今の中国人もそうだけどモノへの執着がある。なぜそうなのか、これはまた儒教なども含めて手をつけてみたいと思う。

この本の構成としても、平安と鎌倉の仏教にページが割かれてることから日本の仏教史をみる時に重要なのはその時代ということのようだ。
平安仏教は二人の巨人、空海(774-835)と最澄(767-822)の時代である。僕自身空海についてはちゃんと知りたいなと思いながら、そのままでいる。空海について言えばまず密教という響きがいい。いつの時代でも、アウトサイダーで時代の先を見ているような人には憧れる。その空海は中国で密教を学び帰国する。インドでの密教はヒンドゥ-やスラムがの勢力が脅かされるようになった後発展したようで、彼が会得したものインドの初期の密教であった。密教といえば曼荼羅というように、自然や宇宙までを一体として捉える世界観をもっている。空海の思想に「即身成仏」というものがある。だいたい日本の仏教は如来蔵思想があって、人は本来仏性を備えていて修行することで煩悩を取り除き、それを何度も生まれ変わりながら仏になることができると考える。しかし、空海の即身成仏は生きているままで成仏できると主張した。こんな論理、業に励んでいる僧にしてみればタマッタモンジャナイ。これは勝手な僕の推測だけど、この思想は地から這い上がっていくアウトサイダーにして哲人となった空海だからこそいえたのだと思う。自らをなぞらえ仏となることが宇宙の果てのようなことではないと考えたに違いない。密教といえば空海の存在から日本仏教史に確固たる地位をもつのだけれど、その後はあまり発展しなかった。中国でも11世紀には消滅したらしい。
一方の最澄は泥臭い修行をつんできた空海と対照的にエリートだった。彼は学者の海外視察のような待遇で中国に行き、天台宗とわずかながら密教にも触れて帰国する。天台宗は中国仏教において先に挙げた華厳教とともに二大勢力だった。天台宗を拡大した実質的な開祖は天台大師智顗(ちぎ・538-597)で彼は龍樹の「中論」と法華経などをベースに論理を組み上げていく。最澄が日本の仏教に根付かせたのが「諸法実相論」という現世を肯定する思想、つまり現実のあるがままが本質を表わしているということ。この思想に至ったのには、もちろん日本土着のアニミズムを取り込んだのだろうし、密教に触れたことが関係するように思えるけれど次回以降のbook martinの課題。
天台宗はその後も弟子達によって受け継がれ、鎌倉仏教の礎となった。臨済宗の栄西、時宗の一遍、日蓮などみな天台宗を学んでいる。

鎌倉仏教になると仏教は大衆へと向っていく。これまでは僧のみ求めることができた現世利益、超自然的な力、悟りといった「財」を民衆も求めるができるようになる
鎌倉仏教のの要点は下記の五点だそうだ。

1.旧仏教の復興運動
2.法然、親鸞の専修念仏
3.栄西、道元の禅
4.日蓮の法華信仰
5.一遍の念仏

復興運動は末法思想が拡がる中で、戒律の重要性を訴える動き。
専修念仏の流行、この本では凝縮して触れられているので、一番印象に残った部分しか言えないのだけれど、僕はずっと疑問だった、法然、親鸞はなぜ「南無阿弥陀仏」と唱えればよいと説いた。どうしてそこまで形骸化してしまったのかと思っていたけれど、いや結局形骸化を招いてしまったのだろうけど法然にはしかるべき考えがあった。大勢へのへの叛逆者法然はこう考えた、いくら厳しい業を行ったとしても、その業が仏になる為と意識してのことであれば、それは煩悩であるため成仏は適わない。だから頭を空っぽにして、ただひたすら念仏を唱えよ言うわけだ。これはカントの定言命法と仮言命法が連想される。最近NHKの番組で話題となり、30万部のベストセラーとなっているマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられていた。仮言命法とは「○○だから△△する。」ということをいう。そして仮言命法によって行われる行為は道徳的でないとされる。わかりやすい例だと、いくら良いことをしてもそこに報酬や見返りを期待する気持ちが少しでもあれば道徳的とは言えない。法然が考えたのは、従来の僧への批判をこめながら、ただひたすらに無欲に「南無阿弥陀仏」と唱えるべきだと民衆に説いた。親鸞も「計らいを捨てよ」と説き、自己や世界への関心を滅して、自己のすべてを捧げて帰依すべきとした。
禅は栄西が確立する。そして気になるのは道元。全ての衆生には仏性が備わっているのになぜ修行すべきなのかということを考える。これは如来蔵思想につきまとう矛盾で、「正法限蔵」にはそういったことなど書かれているらしい。それにしても僕は能や茶など、侘び寂びにつながっていく文化や芸術で重要な禅については全然理解できていないから、何も書く事などできない。あぁ課題は山積みだ。
日蓮についてもざっくりと本を読んだことがある。痛烈な法然批判をするのだけど、法然を知らないのでイマイチことの本質が見えていない。戦後日本の新興宗教といえば日蓮と法華経を扱ったものが多いし、折伏なんてのは強引な勧誘の後ろ盾にもなっていたりするし。
一遍についても特にかけることは無いのだけど、別の印象があって、網野善彦の本に良く出てくる一遍だ。何かというと有名な「一遍上人絵巻」、ここには当時の民衆本来の姿が描かれていて、従来の中世社会の認識を覆す資料なのだ。非人(差別用語として変換しても出てこない)などは、人未満の人という認識かもしれないけど、実は非人にもいろいろあって、人と神との間を行き来する非人など、その役割は様々で網野さんは現在の歴史観の誤りを指摘している。
民衆にむけて開かれていくこと、それは大乗の重要な部分ではあるけれど、やはり俗化は否めない。仏像だって今の平和な日本こそ崇高な大日如来像が好まれるけれど、飛鳥時代に病を治癒する薬師如来像というもの登場し、薬師寺もこの頃建立された。この現世に即効き目のある如来、それはそれは人気があったそうである。寺の伽藍だって飛鳥時代には塔を中心とした崇高さに重きを置かれていたものが、だんだんと正面性が生まれ、平等院鳳凰堂のように正面にいかに極楽を表現するかという参拝者にとってのわかりやすさへ向う変遷を辿る。

室町時代に以降なると、仏教の発展はあまりなくなる。本書でもざっと扱う程度なので、引かれたものを覚書程度に書く。室町時代は、茶や能などの芸術で、また大衆の一揆などの反体後ろ盾としての仏教がある。芸術との絡みはもっともっと追いかけて生きたい。あとは一休さんこと一休宗純、頓知とユーモアなイメージがあるけれど、ずいぶんとウィットにとんだ人物のようだ。
江戸時代になると幕府は仏教の権益を弱体化させる。思想の主流は儒学となっていく。そんな中、良寛についてはぜひ覗いてみたい。

仏教の本を2冊続けた。今回「日本仏教の思想」で、肯定的な日本仏教を概観したのだけど、知れば知るほど知りたくなるところがある。まずは平安仏教から入るべきか。となると空海へ向うことになるけれど、いきなり踏み込む前に、いくつか経由したしたい気もする。
とりあえず次は、松長有慶「密教」を読もうと思う。

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2010年9月15日 (水)

『ゴールドコンサート』をご存知ですか?

『ゴールドコンサート』をご存知ですか?

どんなコンサートかといいますと
障害をもったミュージシャンのコンテストです。

と読んで、皆さんいろんな感じ方があると思います。
・・・なのであえて(乱暴な言い方で)言わせていただきますと。聞き苦しいとかは絶対ありません。
演奏や歌には支障のない障害或いは努力で壁を乗り越えながら活動しているミュージシャンで、きちんと審査を通過した人のみが舞台に上がってます。

ジャンルは様々です。
昨年はゆずみたいなギター弾き語りもいれば、バイオリンの演奏もあればロックやJAZZもあり

ちなみに昨年優勝したバンド「珍獣王国」です。
カッコええでしょ!↓

またまた乱暴な書き方をさせていただけば、助け合いの気持ちとかがなくても、チケット代の元は十分取れる満足度がありますよ。

そしてすごく純粋な力をもらえると思います。

●「第7回ゴールドコンサート」

2010年10月3日(日)
開場 15時30分 / 開演 16時30分

東京国際フォーラム ホールC

URL: http://gc.npojba.org/7

SS席指定 3,500円
S席指定 3,000円
A席自由 2,000円
………………………

もちろん。僕も行きます。

興味を持たれた方ぜひ行ってみてください。

また、行く行かないは別にして、このコンサートのことを宣伝して頂けるとありがたいです。

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2010年9月13日 (月)

銀座目利き百貨街(日本デザインコミッティー主催)

昨日、松屋銀座で開催中の銀座目利き百貨街に行ってきた。
日本デザインコミッティーが2年に一度開催するイベント。
今回はグラフィックデザイナー原研哉さんの企画。

以下説明文webより転載→

銀座目利き百貨街」は四十九人の店主が、それぞれの目を利かせて選定する四十九のセレクトショップからなるわずか六日間の商店街です。
建 築家、博物学者、茶道家、デザイナー、現代美術家、編集者、骨董店店主、脚本家、イラストレーター、評論家、造形家、キュレーター、和紙職人、プロデュー サーなどなど、物を見る目の力が問われる仕事をしている方々に、それぞれ眼力を発揮してもらい、普段では見かけない、逸品、稀少品、珍品の数々を取りそろ え、展示・販売するという企画です。
「目利き」とは、真贋を判定するアカデミックな鑑定眼という意味ではなく、個性的な仕事をしている参加者一人一人の独自の目を活かして、商品を選定していることに由来する言葉です。

転載ここまで←

自分のデザインしたものを出品する人もいれば
自分が目利きして選んだ人もいたり
古本や美術品を売る人もいたり
やる気満々の人もいればテキトーもいてと色々だった。

結構急ぎ足でみたので、会場が混んでいたので
じっくりは見れなかったのだけれど、僕の良いと思ったのは

・芦原太郎さんの選んだティーパック
絶妙な遊び心のあるデザインで良かった

・北川原温さんの選んだサイコ
金属製ののお香の容器で何とも不思議な形

・喜多俊之さんの選んだ寄木細工
心地よいカラフルさと形状のシンプルさが何ともかわいらしい。

・松岡正剛さんの見開き屋
松岡さんの得意のレイアウト(本の見開きの左右ページを関連付けたり、対比的に使う)をアートのようにしたもの

展示品は基本的に購入可能です。
500円くらいのものから100万以上のものまで
会期は短く14日の火曜日まで既に売り切れもあったけど

そう、ナガオカケンメイ×小泉誠のトークショーを途中まで聞いた。
ナガオカケンメイさんは自分の店(D&DEPARTMENT)で、デザイナー自身が使っていないと判明したものは即売り場から撤去だと
・・・さすがだ
 

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2010年9月 9日 (木)

【book martin 41928】 001 立川武蔵『空の思想史』

本を読むことが好きだから、一冊の本を読み終わった後、次に何を読むかと決めるときが何ともワクワクする。

ちょうど読み終えたのが立川武蔵『空の思想史』という本だ。
最後に次に何を読むかを決めようと思うのだけど、
『空の思想史』エッセンスを少し書き綴ろうと思う。

この本は仏教のもっとも重要な考え方である「空」が、インドでの仏教誕生以来、チベット、中国、日本と移りゆく過程でどのように変質してきたかということをまとめたもの。

仏教は多神教、キリスト教やイスラム教は一神教というのは誰もが知っていること。
つまりは、キリスト教やイスラム教では世のあらゆることを論理的に遡っていくとその頂点に神がいる。
一方、仏教はそういった全ての原点になるようなもの(ブラフマンという)はありえない。意外かもしれないけれど、神の存在も認めないし、魂も認めていない。
空の考え方では、全てのものは互いが存在しあい、それによって関係付けられ、それによって存在するというような関係。

仏教の拡がりとその変化を追う時に、般若心経の「色即是空」という意味の解釈を比べるとわかりやすい。
学術的にはかなり乱暴な言い方になってしまうけど(・・・細かいニュアンスまでは僕自身理解できていないし)

色即是空・・・色(諸々のもの)は空である

インド仏教では、あらゆるものは空(実体のない)ものと解した。
日本ではこれを色(諸々のもの)にこそ空(真実)があると解した。

インドでの空は否定的な面が強く、日本でのそれは肯定的な面が強い。
空には3つの時間がある。
まず、①空性に到達するまでの時間・・・ここでは万物は空なのだと徹底的に否定をする。
次に、②空性に到達した瞬間。
最後が、③空性に到達した後の時間・・・空性を超えたものとして見えてきた新たな世界観でもって現実に向っていく時間。

インドでは①の面が強く、日本では③に重点が置かれる。

この変化の訳はそれぞれの環境の違いが影響しているのだろう。宗教の発生は現実と心の間を補填するようなものだから、その環境によって生まれる宗教にも違いが出てくる。
いろいろな人が話していることだけど、例えば有名な宗教学者山折哲雄さんも中東なんかの過酷な環境に行くと、キリスト教やイスラム教のような一神教が生まれた理由を肌で感じたという。苛酷な環境で耐え生きるためには、強く信じるものを必要とするわけだ。
一方インドも暑く過酷な環境で、なのに誕生した仏教は唯一神のない宗教だ。強く信じられる神の代わり、この現実は真実ではないという否定し、別のどこかに生の拠り所を求めている。
じゃあ日本仏教で肯定的な面が強いというのは、そもそもアニミズム(自然崇拝)を信仰する土壌があったように、自然豊かでそこから与えられるものが多かったからだろう。

このニュアンスの変化を立川武蔵さんは桜で説明していた。
インド人の僧ならば、すぐに散ってしまう桜のような花の色や形に執着するなと説くだろう。一方、日本人の桜が好きということには桜が散るということまで含まれていて、つまりは桜を無常なものとして受け入れると。

本当はもっともっと密度の濃い本なのだけど、頭がおっつかない。。。
いつもは仏教の本をポツリポツリと読むから、イマイチ理解が浅い
だから次に読む本は仏教を続けてみようと思う。
10年以上前に買った同じ著者立川武蔵さんの『日本仏教の思想』を読むことにした。

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2010年9月 5日 (日)

The Sky Crawlers ・・・スカイクロラ

押井守監督のアニメーション映画『スカイ・クロラ 』を見た。
いまさらですが・・最近映画を見ていなくて。
( きちんと見たのは「少年メリケンサック 」以来。。。おいおい )

主人公は遺伝子異常で老いない身体を持ってしまったキルドレたち。
身体が破壊されない限り、死ぬことはない。
そんなキルドレの戦闘機乗り達の話。

生命を宿しつつ、死なない或いは死ねない彼らにとって生きているという感覚はウツロうつろな蜃気楼のよう。
生と死のコントラストがないということは、死がないということは生きているということなのか・・・。

だから空を舞い・・・。
生と死の空隙をブッ飛ばす。

敵と闘う・・・。
魂を剥き出しにして。

現実の生身の僕らは、生きていると感じられているのだろうか。
喜び、悲しみ、不安、怒りを感じる時だろうか。
人と交わる時だろうか、孤独な時だろうか。
安定した生活をしている方が幸せだろうか。
不安定ながらも変わりゆく日々である方が幸せだろうか。

キルドレは架空の存在だけど、あえて比べるなら僕らは少なくとも一つ大きなものをもっている。
生きることの他に、死に向える者であるということ。

生が有限だからこそ、生きたいという思いが生まれるのだろうし、
こうありたいと願うのだと思う。
生きる意味を求めるのだと思う。

いずれにしても生きることは
生半可であってはならぬと思う。

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