« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月

2011年1月27日 (木)

【book martin 41928】 006-01カール・ポランニー『経済の文明史』

Photo

経済というものは、どんな化物なんだと思っているのは僕だけではないと思う。この化物のことを皆が知りたいと思っている。経済というものは生活の根幹にあるもので、あらゆるものが経済的な仕組みによって成っている。それは生きることに関わる物ような部分から、社会制度の根幹にもなり、はては仮想空間のようなところまでも。経済の問題は簡単に答えの見つかるものではないのだけど、それでも少しづつ考えていきたいと思っている。

ポランニーの基本的な考えは、経済は社会の中に埋もれたものだということなのだけど、やはりそうだと思う。いや、正確には思いたい。ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で世界を見てみろ、民主主義の国はみんな経済的に豊かじゃないか、でも逆はないだろみたいなことを書いていたと思う。けど、はて?と思いながらも読んだころの僕は上手く相対化できなかった。経済というものを少しづつつまんでいると、経済は成長し続けるという神話があまりにも大きすぎる気がする。

やっぱり経済をもっともっと引いた位置から、つまりは歴史的に俯瞰して見てみてみたくてこの本を読んだ。今の経済、もう少しはっきり言えば市場経済は人類史上どのように位置づければいいのかを知りたいと。

ポランニーは「経済は社会に埋もれたもの」だという。経済学というものだってせいぜいアダム・スミスから始まるわけだし。ちなみに『国富論』が1776年なのだから、かれこれ2世紀半も経っていない。とすれば、いまの世界って社会っていうのがそもそも人間にとって当たり前なのか否かは一度疑ってみる価値はあるんじゃないかな。仮に今が割と最適な状態であったとしても別の形態が存在していたということを知っていてもいいんじゃないかな。
なんでそんな事をいうかといえば、日本人の道徳とか価値だとかがあまりにも経済中心になってしまっているからなんだけど。

マックス・ヴェーバーがルターに始まるプロテスタンティズムの勤勉さがエトス(精神の柱となるような行動の原理のようなもの)となり資本主義を加速させたという。もちろんそこに産業革命があったこともある。日本人の場合、宮本常一さんあたりから始まって網野善彦さんがいうように日本は百姓=農業ばかりではなく、江戸時代から商業や産業が存在していて、資本主義へと発展する素養は十分にあった。でも、日本にはプロテスタンティズムのような絶対神を核とするエートスはなかった。そこで伊藤博文あたりが天皇を現人神とすることで、資本主義のエートスを日本に作った。戦後天皇は人間となりエートスはなくなり、日本国民はアノミー(宙ぶらりん)となった。

中心を欲した日本人は経済成長にかけた。そして世界第二位の経済大国となったまでは良かった。その地位からズルズルと下がりながらも、いまだに経済大国日本こそ真の姿という幻想が拭えないでいる。経済は成長し続けるという陽炎の如き仮説にしがみつく。いまでもアメリカの後を追いながら、経済の伸び代を血眼になって探す。
こないだも書いたけど、日本には日本流の良さがあっって、西欧発のキリスト教発の資本主義とまたひとつ違った経済の仕組みというものがあり得てもいいんじゃないかと思う。

アメリカは大戦中にサポートに回りながら戦火を被ることなく、金(きん)を集め、戦後はマーシャルプランでドルで援助をし世界にドルをばらまいた。これによってアメリカはドルを基軸通貨に据えることができた。そしてブレトンウッズ体制でドルは金に準拠し、安定した通貨であると宣言して、基軸通貨としての位置付けが完璧になった。もうドルは金にペッグしませんというニクソン・ショックまでアメリカは計算づくだったという話もあるけれど。
アメリカが政治でも経済でも覇権をとった頃から時が経ち、今過渡期に入っている。確かに市場経済がいくらグラついたいたものとはいえ、その外へ出ること、あるいはその次の発展的な制度へと移行することは今のところ相当飛躍した議論になるのかもしれない。ただ世界は変革の時期であって日本では天皇が変わることが一時代となるけれど、今世界史的な一つの時代が終わりつつあり、アメリカから次なる覇権への移行が始まっている、どの国かといえばそれは中国になるという説が強いけど、多極化の時代だとか無極化との説もある。


話がごちゃごちゃしてしまったけど、要は経済というものを根深いところから考えなおしてみるべきで、今は考え直すべき時であるということ。前置きだけで話が長くなってしまったので、本題は次回から。。。(つづく)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月24日 (月)

スティール・パンのスティック・ケース

20110124case01

スティール・パンという楽器ご存知ですか。
今回頼まれて作ってみたのが、そのスティールパンを叩くバチのケースです。

20110124case02

革紐で絡げて欲しいとのことでこんな形になりました。
ほぼスケッチ通り?かな

20110124case03

さて、気に入って頂けるかどうか。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 8日 (土)

【book martin 41928】 005-02 小室直樹『日本人のための宗教原論』『日本人のための憲法原論』

Photo

(年をまたぎましたが、続きです。)

実はこの予定説を理解することが資本主義というものを理解するための一つのベースとなるのです。
ヨーロッパは資本主義の発展ということから考えると後進国でした。そもそもキリスト教では儲けるということについては、肯定的ではありません。マックス・ヴェーヴァーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」の中で、予定説がなぜ資本主義のエートスとなったのかを説明しています。
その前にまず、「天職」という考え方を理解しなければなりません。ただし日本人の天職という考え方とはだいぶ異なりますので要注意。日本語なら例えば、この仕事は私の天職だと思いますといったとき、これは二つとない自分にとてもあっている仕事だ、というような意味で使われます。一方キリスト教での天職とは、神が与えてくださった仕事ということです。ということは、その仕事が自分にあっていると思っても思わなくても何かしら神が私にこの仕事を与えてくれる理由があったはずで、私はこの仕事に感謝して懸命に努めねばならない、となる。
宗教改革の以前から天職という考え方はありました。でもそれは主に修道院の中での話でしかなかったんです。それがルターとカルヴァンが宗教改革をしたときに、民衆へと広まっていきました。すると予定説のエートスが精神的なエンジンとなって見る見るうちにどんどん富を生むこととなった。なぜなら、プロテスタントの下では本来のキリスト教への回帰を目指してより禁欲的な生活が強いられた。もちろん金儲けは汚いものとされていたのだけど、人々は日々一生懸命働き、節制した生活をすることが善とされていたわけですから、ますます働く。するとお金がどんどん溜まっていった。たしかに産業革命というハードの革新もあったのですが、この予定説というエートスつまり根本を司るプログラミングがあったがゆえに西欧での資本主義の発展があったのです。
ですから逆にその視点で日本を見てみるということが必要で、それは後で書こうと思います。

そしてもう一つが契約という概念で、こちらも日本人には馴染まないものです。日本で生活していると社会へ参加するようになるにしたがい、契約を交わすようになっていくと思います。日本もビジネス上の契約がしっかりしてきたとか、古い業界だからナーナーな部分が残っているとかそういうレベルでの話ではなく、もっともっと根深く習慣としてあるものなのです。そもそも誰との契約なのでしょうか。そう、神との契約のことなんです。契約というと、人と人つまり横のつながりでの契約と考えてしまいますが、それ以前に神との縦の絶対の契約が存在しているのです。
旧約聖書には、神に背くとどんなに恐ろしいことが起きるかが書かれている。キリスト教圏で育つ子は、小さな頃から新約とあわせて旧約も読むそうで、この契約の概念が刷り込まれ、契約がエートスとなるのだと。たしかに政党のマニフェストもこの契約の文化あってこそのものなのでしょう。日本には、議員にも有権者にもどこか頑張ってダメなら仕方なしであるとか、自分だけ地元だけよければいいやという考えがある。政党が有権者に対してマニフェストを提示して、そこには契約というものが微塵も見えてこないのは、全くをもってこのエートスの違いなのだと思います。

このようにキリスト教は民主主義と資本主義のエートスなのです。一方、日本には絶対の神はいないのだから、いつまでたっても民主主義やが成立しないのは当然といえば当然なのかもしれません。
ただ、かつては日本にもこのキリスト教のエートスに価するものがあったのです。いつまであったのか、それは敗戦まで。そう現人神天皇がキリストのような存在でした。明治から敗戦までの日本には、民主主義と、資本主義がうまく機能するかもしれない要素があったということになります。
実はこの思想を仕組んだ人がいます。それは初代内閣総理大臣伊藤博文です。彼はすごく頭が良かった。深い洞察のある人であったのでした。欧州へ視察へ行った際、資本主義と民主主義が産業革命や議会の仕組みだけでは決して成立し得ないということを見ぬいたのです。そのエートスにキリスト教が存在するということを見抜きました。その彼が作った宗教こそ天皇教なのです。

最近読んだ村上隆『芸術闘争論』で、敗戦の少し前から現在までの歴史(芸術史)をよく知った方がいいといっていました。この本はとても面白くて、現代ARTという不可解なものの構造をすごく分かりやすく説明してくれているのですが、そこで村上隆がそういうわけです。これはARTに限っての話ではないと思います。芸術が評価される、つまり価格がつくわけです。そのルールが戦後は英米を中心作られた。一方の日本はどうか、簡単にいえばアノミー(宙ぶらりん)なわけです。戦後の日本はとにかく規制をから解き放たれる、自由になるということばかりがクローズアップされた。天皇教も戦争と合わせて非難されたわけですが、少なくとも資本主義と民主主義という面から見た場合、悪いことばかりではなかったわけです。
村上隆さんはこの著書で日本の芸術に根深い「芸術家=利益を求めない」「芸術家=自由奔放」という神話を再三嘆いています。自由というものが力を持つのは縛りがあるからです。君主国家であったり規制であったり、そういうものに対する自由を消極的自由といいます。政治や経済、社会の問題でも日本は米国よりの自由奔放さばかり取り入れています。グイグイ押されるものがあって、自由だと言って押し返すくらいがちょうどいい。今の日本は自由側から押したり、暖簾に腕押し状態。自由主義者のハイエクは共有する前提が多いほど人は自由になれると言っています。グイグイ押さえてくるものを知っていれば自由になれるのです。
この日本人のアノミーは高度経済成長によって一旦は紛れていました。経済、お金という指標で誤魔化すことができた。でもバブルのあと、アノミーがもろに表出してくる。それが経済的理由による自殺者の急増といった現象になる。

この他にも、なるほどと思うことがいろいろと書かれていますが、民主主義と議会について少し。
民主主義は素晴らしいとされているけれど、ずっと良いイメージがあったわけではなく、戦後しばらくは悪いイメージをもつこともあったようです。なぜなら民主主義は独裁者を生みやすい。ヒトラーは民主の支持を得て、国家の全権を握りました。遡ればナポレオンや、ローマのカエサルもそうなのです。衆議院と参議院があって、参議院はその昔、貴族院でした。海外にも上院や下院があり、上院はやはり貴族が構成しています。貴族というのは旧来の既得権ということで今ではあまり良く思われない。でも、このこの貴族院があることで、人気者に集中しやすい民衆や、国王の暴走を喰い止める役割もあったのです。
ただ、議会制をとる場合、そもそも違った要求を持つ者どうしがぶつかり合うから議論になり収斂して進展していくはずが、今の日本などは同じような立場の人で両院を構成しているわけですから何にもなりません。ましてや政党だって同じこと、いまや政権を取ることが目的になってしまっている。
アメリカは上院下院の議会と、大統領という二重の構造にすることでこのバランスをとっています。アメリカ国民は民意を反映するものとして大統領選挙をとても重要に思っている。だからこそ、あえて選挙期間お一年もとり、候補者の良い部分、政策、ボロがもすべて見極めた上で投票できるようにしているのです。

資本主義と民主主義の成立にはキリスト教のエートスが欠かせない、というかこのエートスあってこそのものだと、小室直樹さんは再三いいます。先述したように、民主主義にも危うさがあり、資本主義についても危うさが出てきた。じゃあ他に何があるのかといえば、すぐに答えが出るものでもない。ただこれから先、欧米を中心としたヘゲモニー(覇権)がアジアへとうつっていくときに、日本なりのものを意識しなおしてみることは無駄ではないと思います。つまり、日本人にもエートスがあると思うのです。それは資本主義や民衆主義には合わないかもしれないし、今の世界の流れと反するものかもしれない。でも日本が世界に名を轟かせたのがたかだか戦後五〇年なのだとすれば、もう少し大きな時間軸で日本流の社会なり、政治なり、経済もあるのではないかと思います。このへんはもっともっと勉強しなければなと。。。

タイトルでは『日本人のための宗教原論』『日本人のための憲法原論』と二冊を上げましたが、憲法原論の方を中心に書きましたが、この二冊は読んでみてください。今は変化の時で時事ニュースもめくるめく流れていきますが、ぜひ。
イスラムについても知りたいなと思っています。イスラム教は今でも利子をとってはいけなくて、中東の金融機関には利子がないところがあるそうです。グラミン銀行でもなく、ゲゼルの貨幣でもなく、また違ったものがあるのかなと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 2日 (日)

リベラルの変遷

Photo


年またぎでしたことは、風呂に入ったことと。
そしてもう一つがサンデルの「これからの『正義』の話をしよう」の再読というか、もう一度いくつかの章を読み直しました。そこでそっかと思ったことがります。

P.342にこんなくだりがあります。

 

…(前略)…不平等は市民道徳をむしばむおそれがある。市場を愛してやまない保守派と、再分配に執心するリベラル派は、この損失を見過ごしている。

このリベラルという言葉の使い方が、いまいちピンとこなかったのでwikiってみたらこうありました。

「自由主義」や「リベラリズム、リベラル」という思想や用語は、時代や地域や立場などにより変化している。初期の古典的自由主義はレッセフェールを重視して政府の権力を最小化する立場が多かったが、20世紀には社会的公正を重視して社会福祉など政府の介入も必要とするニューリベラリズム(New Liberalism、社会自由主義)が普及した。アメリカ合衆国や日本では「リベラル」という用語は、この社会自由主義の意味で使われる場合が多い。この「リベラル」に対して本来の自由主義的な側面を強調する表現がリバタリアニズム(libertarianism)で、特に経済的に古典的自由主義を再評価する立場を新自由主義(ネオリベラリズム、Neoliberalism)とも呼ぶ。・・・(wikipediaより)


なるほど、リベラルという言葉にも変遷があるのですね。僕の認識では古典的自由主義があって、その後いっきにリバタリアニズムやネオリベになていました。リベラルという言葉に社会主義のニュアンスがあったことがあるのだとは知りませんでした。

リンク(wikipedia)
自由主義
社会自由主義
リバタリアニズム
新自由主義


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 1日 (土)

今年も宜しくお願い致します。

今年も皆様にとって良い年となりますように。

2011bog_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »