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2011年2月20日 (日)

【book martin 41928】 006-03カール・ポランニー『経済の文明史』 互酬について

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互酬という言葉はあまり馴染みがなかった、というより知らなかった。古代の社会や歴史の授業でクニの始まりをこんなふうに教わっていないだろうか。狩猟社会から農耕社会になって、収穫が安定し、貯蔵ができるようになったときリーダー的な者が現れ、仕切るようになり、それが豪族となっていった。どうだろう、こんなことがあたりまえだと思っていないだろうか。少なくとも僕はこういう認識だった。

簡単にいえば、互酬というのは与えて返してもらうというのがひとまとまりになっているような、相互扶助の関係のこと。ギブ・アンド・テイクといえばどこかに損得が含まれていたり、プレゼントとは色々なパターンがあるけれど、基本的に贈るだけで、バレンタインとホワイトデーのように贈り合いもあるけれど、返してもらうということを必ずしも前提にしていない。やっぱり現代に生きる僕には経済的な合理性や損得のような考え方が染み付いていて、共同体としての絆の交換というのがいまいちシックリ飲み込めなかった。ものの交換だと想像力に限界があってよくわからなかったけど、人の交換で考えたところでなるほどと思った。

互酬について納得できたのは柄谷行人「世界共和国へ」を読んだ時だった。今も残っている社会のタブー近親相姦はなぜ禁止されるようになったかという話が出ていた。巷では血が濃くなるとか遺伝子的な理由がよく挙げられるけれど、遺伝子などの科学的知識が発見されるより大昔から禁止されていることが今までどうも腑に落ちなかった。
「世界共和国へ」に文化人類学者で構造主義の祖と言われるレヴィ・ストロースによるなぜ近親相姦がタブーとなったかという話が出ていた。人は家族に属し家族は共同体に属していた。共同体で部落を形成し生活をしている。そこでは互酬の関係がある。つまり絆のある交換のようなものだ。自分が獲ってきた獲物は共同体の皆で分けて食べるのが当たり前、その代わり誰かが獲ってきたものを分けてもらうこともできた。こうやって生きる為のリスクを減らしす。そして、さらに生きる為のリスクを減らすには、大きな共同体との関係をもつことが必要になる。その為に女性は嫁に出された。そうすることで義父、義兄弟といった義理の家族が増える。それが共同体との関係を密にすることになるからだ。逆に言えば、近親に嫁いでしまうと、狭い範囲での関係は強くなるものの、共同体との関係は弱くなってしまう。生きるための方法、それが近親相姦がタブーとなった理由なのだ。

ポランニーは「アリストテレスによる経済の発見」の中で、ギリシャにはすでにかなり発達した経済システムがあった(最近の研究ではどのような通説になっているかはわからないけど)という通説に疑問を呈している。

'人間は本来自給自足的なものである、というのがアリストテレスの描く像であった。したがって、人間の経済は人間の欲望や必要の無制限性―今日の言葉で言えば、稀少性の事実―から派生するものではなかったのである。…中略…アリストテレスの考えは、商業的な交易は金もうけという不自然な、そして言うまでもなく、限界を知らない衝動から発生するものであり、価格は正義の規則に従うべきである(その実際の方式はかなり曖昧であるが)'

ポランニーは互酬時代(少し再配分も含まれているけど)の経済的な特徴について8点あげている。そもそも「経済が非経済的な制度に埋め込まれているような状態では、経済過程を見いだすことが困難」ということを知り、いまの経済環境を人類史上で相対化してみないといけないと思う。大雑把に書き出してみると以下のようになる。

1.「人間の生活の物理的な場を、経済のなんらか表見的な部分に関連づけようとしても、それができない場合、その人間の住みかーー彼の家庭とそれに接する環境ーーは経済的な連関をほとんどもたない。」

このあと女性人類学者マーガレット・ミードのニューギニアのアラペシュ族の話を引用している。狩猟民族のような生活をおくってるのであるけれども、そこには損得の観念のない現代社会では全く想像できないような話が書かれている。誰が獲ってきたから誰が食べるという考え方が存在しない。むしろ自分で殺してきた肉を自分で食べるという事が道徳的欠陥者とされる。他にも、家の部材は誰か他の人の家で不要となったものであったりする。だから、不要となった部材(たとえば垂木が長すぎるとか)を捨てることもない。

2.「数量性の欠落」についてはマリノフスキーという人類学者を引き合いに出して説明している。
a.「ひとつに無償の贈与というものがある。贈与という観念には返礼というものが含まれていた。なので丸損したと思うことはない。」
b.贈物は経済的に等価なやりとりがなされるのだけど、交易ということからみると意味をなさない交易がある。同じものを行って来いで戻ってきたり、まわり巡って戻ってきたり。何が目的かといえば相互の関係を緊密にすることであったりする。
c.もののやりとりをするときに不漁や凶作である場合は、量を減らすことができたりして、双方が充足しているということが原則として考えられている。また、中古品は人が使ったということが価値になるため、新品の方が不利と考えられる。
d.取引には社会的な関係が作用するので、不平等な取引が普通になる。

3.「所有権という概念がない」
同じものを何人もで共有する。一人が権利を主張することはない。

4.「経済的取引そのものは、血縁的共同体からはなかなか生じてこない」という書き方だとピンと来ないけれど、そもそも求婚、婚約、婚姻、養子縁組、奴隷解放といった事にともなって財の移動があり、それが取引するということの始まりになる。つまり「その人の地位を社会の文脈の中に確立する上で取引が発揮する重要性からみれば、二義的なものであった」のだ。まずは、土地、家畜、奴隷のように地位を示すような財が、地位とセットで動いたので経済取引といった取引を目的としたものは存在しなかった。

5.「多くの古代社会においてその富を構成するのは、財ではなくてサービスである。奴隷や召使や家来がそのサービスを提供する。…中略…物質的成分が非物質的成分よりも増えるにつれて、政治的手段による統制が後退して、いわゆる経済的統制に道を譲る。」

6.アリストテレスの哲学の中での幸福な人生の目的3つとは、1つ目が名誉と威信・・・位階と順位、2つ目は生命と身体の安全・・・敵や裏切りからの安全、奴隷の反乱からの安全、強者の圧制からの安全、3つ目が富・・・家宝や財宝をもつことの幸福。
つまり「貧困は劣った身分を意味する」もので、「低所得という純経済的な事実は視野に入っていない」ということ。農民などが経済的な観点から貧しいとされず、貧しいとされるのは「他人の命ずるままに働く」ような身分のことをいう。

7.「善(アガタ)こそ人生の最高の目的であり、もっとも望ましいものであり、かつもっとも稀なものである。」「善(アガタ)の希少性は、身分にも、特権にも、財宝にも固有の性質である。つまり、多くの人々に得ることができるようなものなら、善(アガタ)は善でなくなるのである。…中略…稀有の目的は、経済の次元のものではなく、この希少性は非経済的な次元から生じるものなのである。」

8.「人間生活のぎりぎりの基本的条件である、人間集団の自給自足性は、「必需品」供給が物的に可能なときに確保される。ここでいう物とは、生命を支えるもの、貯えうるもの――すなわち、長持ちするもの――のことである。…中略…飢餓や戦争の時、市民たち、家族の成員たちががそれらに頼ることができなければならない。」
とうもろこし、ぶどう酒、羊毛など蓄えられるものについては蓄えて、いざとなれば配給した。ただ、貯めるといっても、ある程度というのがあって、過剰に貯めるようなことはなかった。その昔は、欲望が生み出す余剰というようなものとの隔たりがあったということになる。

以上をかい摘んで見ていると、自分たちが当たり前のように経済的な価値に結びつけていることが、当たり前でない時代もあったということがわかってくる。生きるために家族や共同体をなし、自給自足性、公正のあった社会には現在の経済という合理性は全くなかった。ポランニーが非経済的というものが残っていた時代は、人間が生物である以上、できるだけ多くのものが生き延びるということが合理的であった。
ただ、こういったことが現在の社会には全くないのかといえば、かなりメタな部分で残っている。それに、この互酬が共同体を経て国家というところまで辿り着くのだけど、それはまた今度。あと、ポランニーは貨幣や市場のことも経済人類学から説明しているので、気が変わらなければ書きたいなと。

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