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2011年2月

2011年2月26日 (土)

【book martin 41928】 007『世界を変えるデザイン』

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現在の社会はまさしく「暴走する資本主義」であって、誰もがそこに疑問を抱きながらもなかなかそこから離脱することもできないでいる。その原因の一つは金融にあり、もう一つは企業とりわけ大企業、グローバル企業といわれるものの利益至上主義にあるように思う。だから個人的には、大企業というものを毛嫌いしている感があるのは否めない。でも大量生産や工業というものがバランス良く機能していた時代もあったわけだ。この先、今の行き詰まりを超えて次のステップの資本主義へ移行していくと思うけど、その中で企業も何かしらの新たな基準で役目を果たしていくはず。ただその時に、電気自動車のような、あくまで僕らが今いるような先進国(この言い方さえ最近気に入らないのだけれど)にとってよいものばかりではどうしようもない。
ポランニーや柄谷行人がいうような互酬と再配分が根底にある社会へと発展していかなければ、明るい未来はないと思う。これまでは貧困に喘いでいる国に対して、資金的な援助が行われてきた
再配分というのはお金だけではない。この本でいくつもの例が示されているのは、デザインというものの力で、そのお金での援助の何倍もの価値のある実績をもたらしたものばかりだ。
たしかにそこにはボランティアや利益を追求しない形で、多くの人が携わっているということもあるけれど

この本は2007年に「Design for the other 90%(残りの90%のためのデザイン)」展にあわせてつくられたものだ。日本でも「世界を変えるデザイン展」として昨年2010年5月に六本木で開催されていた。この90%という数字は何かというと、世界の95%のデザイナー達はこれまで先進国の10%の富裕な人々に向けてしかデザインしてこなかったということを指している。Design for the otherという活動は現在も進行中のようです。
ちなみにBOPビジネスという言葉も、初めて知りました。BOPとは「Base of the Pyramid」(ピラミッドの底辺)にあたる貧困層のことで、BOPビジネスとはそういった層を相手にしたビジネスのこと。

水があること、ガスがあること、明かりがあること、という生きていく上でかなり基本的な水準のことがないといったいどのような生活になるか日本で楽に暮らす僕らには想像を絶する。僕らが生きていけることが、気付きもしない沢山の恵みの重層の上で成立しているのだと・・・。
例えば水がないこと、水を遠地まで汲みに行かなければいけないことで、多くの時間が失われる。大人が桶を頭の上にのせて運んでいるとしよう。まずそれだけで仕事に行けない。お金を得る機会から、疎外されてしまう。親が十分に仕事ができなければ、子は仕事を手伝う為に学校へは行けず、教育も受けられない。
ガスがないところでは薪や草、紙、乾燥した動物の糞を燃料として使う。実はこれらがものすごく体に悪い。1歳から5歳までの子供の死因第一位は、呼吸器の疾患でその原因はこれら質の悪い燃料から発生する煙に含まれる微粒子によるものなのだ。

ポール・ポラック(かつて投資で稼ぎ、今は貧困層へのサポートをしている)は貧困層へのデザインで需要な点として、「手頃な価格、小型化、拡張性」をあげている。特に価格に関しては、価格方がいいとかではなく、手頃な価格でなければ買えないということ。そして価格を安くするための方法として以下のようなポイントがある。

・道具に厳しい減量を課す・・・最高の性能が導けなくても8割の性能に落とすことで、材料が大幅に減量できる場合がある。
・余剰性は余計なものと考える
・歴史にさかのぼるデザインで前進する・・・最新版は今の技術で最適なデザインとなっているのでかつてのデザインを振り返ってみる。
・最新素材で古い素材をアップデートする
従来からあるものを妥当な価格の範囲で性能が向上する新素材に変えることができないか検討する
・継続的に拡張できるものにする
そしてこれが大切で、少しずつ買い足していくことができるということ。例えば畑の灌漑設備の場合、はじめに1エーカーだけに設置し、利益が出たら新たにもう1エーカー追加するといったことが必要になる。

貧困層の自立を目的とした商品を開発するキックスタート(http://www.kickstart.org)は、こういった貧困層をサポートするプロダクトは無料ではいけないと言っている。これは生きることに尊厳を見いだしてもらいたいからだそううだ。
・貧困に対する持続可能な解決策を創り出す為・・・。サプライチェーン(商品供給の流通経路)をもち、そこに関わる者たちが利害関係者となることで、持続可能な事業となる。これがないと現実味のないものになってしまう。
・費用効率を高くする・・・寄付金などだけで無償で配布すると、商品のバージョンアップなどが行えない。有償とすることで、よりよいものへとしていくことができる。地域のある一人が購入し、それを見て周りの人へと拡がていくようになる。
・公正の問題・・・無料で配布するのであると、資金的に配布できる範囲が限定されてしまう。
・個人所有・・・誰でも自分のものは大切に使う。

キックスタートではこいった商品を「できる限り先進的な工場に生産を集中させることで、耐用年数の長い高品質な製品を低価格で生産できる」としている。人が生きるために、高品質な物の大量生産することであったり、それらが流通する仕組みが機能していくのはとても重要と感じる。
生きる為の消費と関わる時、分業や大量生産はとても大きな意味をもつ。お金だけでなく、デザインや知識、知恵という形での再配分というのもあるということ。環境問題、人口問題、貧困問題、金融の暴走・・・たくさんの問題を抱えて先行きは不安定な世界ではあるけれど。
これまでの需要と供給はあまりに一方通行だったのかもしれない。それによって光と影のコントラストがハッキリし過ぎてしまった。情報がインタラクティブになったと言われるように、これからは物の生産でも双方向でなければならない。この本には、この先を示唆する物が含まれているような気がする。上に挙げた、価格を安くするための方法や有償でサポートする理由のリストには、少し具体的なヒントではないかと・・・。

たくさんの事例が掲載されています。 一部を紹介するとこんな感じです。

・100ドルのラップトップ・コンピュータ
100pc
・転がして水を運ぶ「Qドラム」

Qdrum
・さとうきびの練炭・・・
地元で取れるものを利用して、煙が少なく、簡単な設備で量産できる、廃棄するものを使うので薪のための伐採も減る

・ソーラ充電の補聴器・・・
従来の補聴器は電池式で、電池は高価、しかも遠隔地まで買いに行かねばならなかった。

・足踏みのポンプ・・・
畑に水を送り込むポンプ
Moneymakerpump

・住居用土ブロック製造機

・灌漑設備・・・
安価で拡張しやすいように出来ている。初期設置で利益が出たら、拡張し、また利益が出たら拡張し、と収入の循環が生まれやすい。

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2011年2月23日 (水)

『フード・インク』『ありあまるごちそう』

昨日書いたことにもちょっと関係しますが、こんな映画をやっているようです。
観に行ったところで、なかなか生活習慣を変えることはできないと思います。
食べ過ぎないとか、無理やり生産されたに安い食物を買わないとか

お菓子とかハンバーガーが大好きなくせに
こんな映画どうですか?って言っている自分がちょっと偽善者臭い気がして
気がひけるのですが

でも、こういう事実があるのだなということだけ
予告編だけでも結構衝撃的なので、見てみてください。

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2011年2月22日 (火)

大量生産や分業や

空腹の時は、おにぎりにぎりだってご馳走だ。喉がカラカラな飢餓状態にあれば、生米をかじって空腹を満たすだって幸せだろう。

分業を始めた頃、工業を始めた頃につくっていたものは、人が生きる為に貢献する度合いが多かったのだと思う。安く大量につくれることで、購入できるものも増えたであろう。また雇用という面でも、お大きな役割を果たしたのだと思う。そして安定して暮らせる人も増えた。

大量生産で今世界がどのようになっているかは、良い部分も悪い部分も各々が肌で感じ、考えることがあるのではないか。世の中、良いことだけのことはない、だいたい諸刃の剣だ。

ただ、繰り返せば工業や分業により、生きる為に有用なものを安くつくりだすことできる、ということの可能性はある。今更なことだけれど。。。

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2011年2月21日 (月)

靴づくりはどこへゆくのでしょうね

買い物をするときに「安くて、よりよい物」ということを意識すると思います。人によって、「安くて、よい物」への本気度は様々だと思いますし、すごく好きなものや趣味のものを買うとき、それほど気にしないものを買うときなどによっても様々だと思います。

ただメーカーに勤めていますと「安くて、よいものです。が、・・・」というのが実態だと思います。安さには何かしらの理由がないはずがない。そのぶん儲けているのかといえば、そんなことはありませんよ。ギリギリです。生産量も徐々にヘリ、少量で多デザインが進む傾向です。大量生産を前提とした靴メーカにとっては効率の良くない方向へと進んでいます。

靴の材料、わかりやすいところで革を例に出すとこんなことがあります。
靴全般の話をしますと、基本的には鞄や衣類に使われる革より良いものが使われます。高級なものや庶民的なものという点をカッコにいれて考えた場合、沢山の面積を必要とするものの方が質の低い革を使います。
一流の高級靴は、革自体がよいのはもちろんのこと、裁断の時は伸びる方向も考えて肌目のきれいなところだけを取ります。だから当然歩留まりは悪い(捨てるところが多い)。
では、庶民的な靴の場合はどうなるのか、いくつかの方法を列挙します。実際は、これらを複合的に用いて、価格に折り合いをつけています。
革の質を下げる。革の値段はいろいろですが、安い革にするというのもあります。また、見た目だけにこだわる場合、後述しますが誤魔化し方は色々とあり、合皮という手もあります。最近は合皮のレベルも上がってきました。
良くないところを使う割合を増やす。甲革(靴の表面の革)なら目立ちにくい内側、つまりは土踏まず側などを中心に革の良くない部分を使うというのもよくある手段です。

牛や動物の革は、若いものの方が柔らかい。肉と同じですね、高級料理で仔牛の何チャラってよくありますよね。ただし仔牛なので一枚の革の面積は小さくなる。とすればそもそも仔牛の革など高いのにさらに歩留まりも悪い。
そうするともう少し加齢した牛の革の方が大判で歩留まりも良い。ただし、柔らかさなんかはあまりないわけです。硬いということは、適度に伸びないので足に馴染まない、故に歩きにくいということにつながります。
人間と同じで歳をとれば、シワやシミ、さらにはキズも多くなったりする。そんな中でも酷いものは、エナメル用や塗料が厚く塗られたものにされる。他にも銀面(革の表面)を研磨してから塗装する、などなどいろいろと誤魔化すわけです。

革の他にも、特に見えない部分を中心にコストダウンは進んでいます。
ただ最後に、材料を絞って原価を落としたところで、作る手間はそれほど変わらなかったりするのです。むしろ質の悪い材料のために、作業しづらいことさえあります。
そうなってくると最後は人件費、もうこれしかないわけです。

そして海外への移行が始まると、国内への回帰はなかなか難しい。
靴のみならず、日本の産業はどうなっていくことやら。。。

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2011年2月20日 (日)

【book martin 41928】 006-03カール・ポランニー『経済の文明史』 互酬について

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互酬という言葉はあまり馴染みがなかった、というより知らなかった。古代の社会や歴史の授業でクニの始まりをこんなふうに教わっていないだろうか。狩猟社会から農耕社会になって、収穫が安定し、貯蔵ができるようになったときリーダー的な者が現れ、仕切るようになり、それが豪族となっていった。どうだろう、こんなことがあたりまえだと思っていないだろうか。少なくとも僕はこういう認識だった。

簡単にいえば、互酬というのは与えて返してもらうというのがひとまとまりになっているような、相互扶助の関係のこと。ギブ・アンド・テイクといえばどこかに損得が含まれていたり、プレゼントとは色々なパターンがあるけれど、基本的に贈るだけで、バレンタインとホワイトデーのように贈り合いもあるけれど、返してもらうということを必ずしも前提にしていない。やっぱり現代に生きる僕には経済的な合理性や損得のような考え方が染み付いていて、共同体としての絆の交換というのがいまいちシックリ飲み込めなかった。ものの交換だと想像力に限界があってよくわからなかったけど、人の交換で考えたところでなるほどと思った。

互酬について納得できたのは柄谷行人「世界共和国へ」を読んだ時だった。今も残っている社会のタブー近親相姦はなぜ禁止されるようになったかという話が出ていた。巷では血が濃くなるとか遺伝子的な理由がよく挙げられるけれど、遺伝子などの科学的知識が発見されるより大昔から禁止されていることが今までどうも腑に落ちなかった。
「世界共和国へ」に文化人類学者で構造主義の祖と言われるレヴィ・ストロースによるなぜ近親相姦がタブーとなったかという話が出ていた。人は家族に属し家族は共同体に属していた。共同体で部落を形成し生活をしている。そこでは互酬の関係がある。つまり絆のある交換のようなものだ。自分が獲ってきた獲物は共同体の皆で分けて食べるのが当たり前、その代わり誰かが獲ってきたものを分けてもらうこともできた。こうやって生きる為のリスクを減らしす。そして、さらに生きる為のリスクを減らすには、大きな共同体との関係をもつことが必要になる。その為に女性は嫁に出された。そうすることで義父、義兄弟といった義理の家族が増える。それが共同体との関係を密にすることになるからだ。逆に言えば、近親に嫁いでしまうと、狭い範囲での関係は強くなるものの、共同体との関係は弱くなってしまう。生きるための方法、それが近親相姦がタブーとなった理由なのだ。

ポランニーは「アリストテレスによる経済の発見」の中で、ギリシャにはすでにかなり発達した経済システムがあった(最近の研究ではどのような通説になっているかはわからないけど)という通説に疑問を呈している。

'人間は本来自給自足的なものである、というのがアリストテレスの描く像であった。したがって、人間の経済は人間の欲望や必要の無制限性―今日の言葉で言えば、稀少性の事実―から派生するものではなかったのである。…中略…アリストテレスの考えは、商業的な交易は金もうけという不自然な、そして言うまでもなく、限界を知らない衝動から発生するものであり、価格は正義の規則に従うべきである(その実際の方式はかなり曖昧であるが)'

ポランニーは互酬時代(少し再配分も含まれているけど)の経済的な特徴について8点あげている。そもそも「経済が非経済的な制度に埋め込まれているような状態では、経済過程を見いだすことが困難」ということを知り、いまの経済環境を人類史上で相対化してみないといけないと思う。大雑把に書き出してみると以下のようになる。

1.「人間の生活の物理的な場を、経済のなんらか表見的な部分に関連づけようとしても、それができない場合、その人間の住みかーー彼の家庭とそれに接する環境ーーは経済的な連関をほとんどもたない。」

このあと女性人類学者マーガレット・ミードのニューギニアのアラペシュ族の話を引用している。狩猟民族のような生活をおくってるのであるけれども、そこには損得の観念のない現代社会では全く想像できないような話が書かれている。誰が獲ってきたから誰が食べるという考え方が存在しない。むしろ自分で殺してきた肉を自分で食べるという事が道徳的欠陥者とされる。他にも、家の部材は誰か他の人の家で不要となったものであったりする。だから、不要となった部材(たとえば垂木が長すぎるとか)を捨てることもない。

2.「数量性の欠落」についてはマリノフスキーという人類学者を引き合いに出して説明している。
a.「ひとつに無償の贈与というものがある。贈与という観念には返礼というものが含まれていた。なので丸損したと思うことはない。」
b.贈物は経済的に等価なやりとりがなされるのだけど、交易ということからみると意味をなさない交易がある。同じものを行って来いで戻ってきたり、まわり巡って戻ってきたり。何が目的かといえば相互の関係を緊密にすることであったりする。
c.もののやりとりをするときに不漁や凶作である場合は、量を減らすことができたりして、双方が充足しているということが原則として考えられている。また、中古品は人が使ったということが価値になるため、新品の方が不利と考えられる。
d.取引には社会的な関係が作用するので、不平等な取引が普通になる。

3.「所有権という概念がない」
同じものを何人もで共有する。一人が権利を主張することはない。

4.「経済的取引そのものは、血縁的共同体からはなかなか生じてこない」という書き方だとピンと来ないけれど、そもそも求婚、婚約、婚姻、養子縁組、奴隷解放といった事にともなって財の移動があり、それが取引するということの始まりになる。つまり「その人の地位を社会の文脈の中に確立する上で取引が発揮する重要性からみれば、二義的なものであった」のだ。まずは、土地、家畜、奴隷のように地位を示すような財が、地位とセットで動いたので経済取引といった取引を目的としたものは存在しなかった。

5.「多くの古代社会においてその富を構成するのは、財ではなくてサービスである。奴隷や召使や家来がそのサービスを提供する。…中略…物質的成分が非物質的成分よりも増えるにつれて、政治的手段による統制が後退して、いわゆる経済的統制に道を譲る。」

6.アリストテレスの哲学の中での幸福な人生の目的3つとは、1つ目が名誉と威信・・・位階と順位、2つ目は生命と身体の安全・・・敵や裏切りからの安全、奴隷の反乱からの安全、強者の圧制からの安全、3つ目が富・・・家宝や財宝をもつことの幸福。
つまり「貧困は劣った身分を意味する」もので、「低所得という純経済的な事実は視野に入っていない」ということ。農民などが経済的な観点から貧しいとされず、貧しいとされるのは「他人の命ずるままに働く」ような身分のことをいう。

7.「善(アガタ)こそ人生の最高の目的であり、もっとも望ましいものであり、かつもっとも稀なものである。」「善(アガタ)の希少性は、身分にも、特権にも、財宝にも固有の性質である。つまり、多くの人々に得ることができるようなものなら、善(アガタ)は善でなくなるのである。…中略…稀有の目的は、経済の次元のものではなく、この希少性は非経済的な次元から生じるものなのである。」

8.「人間生活のぎりぎりの基本的条件である、人間集団の自給自足性は、「必需品」供給が物的に可能なときに確保される。ここでいう物とは、生命を支えるもの、貯えうるもの――すなわち、長持ちするもの――のことである。…中略…飢餓や戦争の時、市民たち、家族の成員たちががそれらに頼ることができなければならない。」
とうもろこし、ぶどう酒、羊毛など蓄えられるものについては蓄えて、いざとなれば配給した。ただ、貯めるといっても、ある程度というのがあって、過剰に貯めるようなことはなかった。その昔は、欲望が生み出す余剰というようなものとの隔たりがあったということになる。

以上をかい摘んで見ていると、自分たちが当たり前のように経済的な価値に結びつけていることが、当たり前でない時代もあったということがわかってくる。生きるために家族や共同体をなし、自給自足性、公正のあった社会には現在の経済という合理性は全くなかった。ポランニーが非経済的というものが残っていた時代は、人間が生物である以上、できるだけ多くのものが生き延びるということが合理的であった。
ただ、こういったことが現在の社会には全くないのかといえば、かなりメタな部分で残っている。それに、この互酬が共同体を経て国家というところまで辿り着くのだけど、それはまた今度。あと、ポランニーは貨幣や市場のことも経済人類学から説明しているので、気が変わらなければ書きたいなと。

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2011年2月13日 (日)

『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー監督)

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チュニジアで大規模なデモが起きて23年間独裁政治を続けたベン・アリ大統領は退陣し、国外へ逃亡。そのすぐあとエジプトでもデモが起きム30年間独裁政治を続けたバラク大統領は往生際が悪かったものの結局退陣することになった。
エジプト国民の鬱憤を吹き出させてしまったのは、ムバラク大統領が国内のネット網を遮断したことにあると言われている。なぜ遮断したかといえば、自らの醜態がどんどん漏れでていくのを抑えられなくなったからだ。携帯のカメラで写真やビデオ撮影してネットにアップして、twitterやfacebookで公開する、するとそれに共感した友人やフォローする者どうしがそれをどんどん拡げていく。昨年もウイグルやイランで暴動が起きたように、ネットによって政府の不条理な行いを表沙汰にすることからデモが起きるようなことが、新しい市民革命のかたちとなってきたように思う。

そしてこの映画『ソーシャル・ネットワーク』はfacebookの創業者マーク・ザッカーバーグを主人公とした、facebookの誕生から登録者数100万を超えるくらいまでの話になっています。
とてもスピード感と高揚感、それはどんどん桁の上がっていく登録者数、マネーや株、早口の登場人物、寮から住宅そして大きなオフィスへ、従業員の数や群がる女たち・・・・。

facebookをつくる前にザッカーバーグはハーバードの女学生の美人投票をするフェイスマッシュというものをっている。これはハーバードバードのサーバーにハッキングして、女学生の学生証の写真を抽出し、2枚の女学生の写真を並列させ、どちらが可愛いかとアクセス者にに選ばせる。それによって学内の女学生の美女ランキングを作るというもので、この件でザッカーバーグはハーバードから処分をうける。このフェイスマッシュは女性にふられたことから生まれたのだけど、この映画には終始妬み、復讐の影が絡みつく。そしてその創造の現場とかけ離れたように広大に広がるネットのつながり。

facebookにはナップスターのショーン・パーカーが関わっている。この映画でも、出てくるのだけど(どうやら事実と異なるらしいものの)
そこで彼はこう話す。
音楽業界は頭の硬いヤツらばかりだ。別の形で復讐はしたよ。どうだい、CDは売れなくなっちまったろ?

オタクで数人しか友達のいないような天才プログラマーが、人とつながる為のサイトを作った。人とのつながりをもたらすことは知識のつながりをもたらすことのように、情報の世界をつなぐという括りでは同じかもしれない。かたやtwitterは情報をつなげることの方に重心があるように思える。一方のfacebookは当初から人と人がつながるということを強く意識し、人間の実体感をもたせる工夫をしている。その思想は実名で登録することや顔写真を掲載することにはっきりと現れている。

内燃機関の発達や電気が生まれてそれが生活を変えた。そしてITの発展で情報のあり方が変わった。マスが大きな力をもったメディアの構造が変わり始めている。情報以外の技術も発達していくのでしょう。僕は情報以外の分野でもマスでしかできなかったことが数千人とか数百人、数十人単位でできるようになるんじゃないかと思う。地域や家族や個人の単位、そして新たなつながりがもたらす集団、こういったものが新たな共同体となり、社会の構造がパーソナルな集合体として再編成されていくんじゃないかと考えています。
それによって発展形としての封建社会や民族文化のようなものになるかもしれないし、統一的な世界というようなものになるかもしれない。少なくとも現在のベクトルとしてますというあり方、帝国というあり方のようなものには限界点を過ぎていて、転換期に差し掛かっているということのように思います。twitterやfacebookが生み出す人のつながりと力の波は転換期であることを実証しているように思えるのです。

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相撲の八百長問題を考えるときに

相撲の八百長問題ついて、疑問に思うこと。
勝ち星を売買することは許しがたいことと思います。

ただ大相撲の歴史や文化が、そもそもガチンコ勝負なのかということ。
記憶にあるところでは若貴兄弟の優勝決定戦で兄が勝ったとか、兄に花をもたせ譲ったとか
実際はどうなのかわからないけれど、人情相撲というのはあっただろうし。

最近はガチンコ勝負の格闘技が人気だけれども、プロレスに関しては筋書きのある闘いと誰もが認識した上で、それでもエンターテイメントとして存在した。

勝負ごとだから本気相撲が基本であっては欲しいと思う。ただ国技というのは文化(相撲という言葉は日本書紀にも出てくるらしい)であるわけだから、文化として相撲を見たときに、もし人情やエンターテイメントとしての要素が相撲に存在しているのであれば、すべてを八百長相撲と同義に扱うのは如何かと思う。

マスコミはすぐ短絡して白黒付けたがるの影響もあるけれど、今の日本人は経済原理で合理的でないという論理立てをされるとすぐ納得してしまう。きちんと分けてみていかなければいけないと思う。これは相撲に限らず、政治にも当てはまると思うけど。。。

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2011年2月11日 (金)

【book martin 41928】 006-02カール・ポランニー『経済の文明史』 経済の実在的と形式的

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ポランニー『経済の文明史』を自分なりにどうまとめてみようか迷ったのだけど、キーワードを挙げてそれについて書いていくというのがいいかなと思う。

経済・・・実在的と形式的

ポランニーは、「経済」には実在的な意味と形式的な意味があるという。それらは融合されてしまって意識をされずに使われており、悪い影響を与えていると。簡単にいえば「実在の経済」とは生きるための交換であり、「形式的な意味での経済」とは「経済的」や「経済化」といった使われ方をする経済だ。

現代に生きる私達は経済というと利潤を求める交換であったり、節約であったり、無駄にお金を使わないだとか、お金の損得のようなところに経済という言葉を使っている。マイケル・サンデルが批判した功利主義や合理的というものの多くがこの「経済的」な思考に基づいている。でもこういった考え方はアダム・スミスにはじまる近代経済以降に登場したものであって、人類史上みると特別なものでしかない。

生きるための経済があったということは次のキーワード「互酬」で説明するけれど、経済の発端はとにかく生存するためにあったということを忘れるべきではないと思う。経済という言葉を使うとき、市場経済をさすことが多いと思う。でも、人類史でみれば非市場経済というものが長きに渡って存在し、生きるための交換が行われていた。獲物を得たらそれは誰のものとするでもなく、皆で分けて食べるのが当たり前だった社会があって、実はそれに基づいた社会が近代に入る前までにかなりの比重を占めていたということ。

一方の形式的な経済についてはこんな書き方をしている。「手段の不足性に由来する選択によって規定されるもの」だとか、「節約行為の連続、すなわち稀少性の状況によって引き起こされる選択の連続」だとか。ウ~ン、分かりにくい言い回し。形式的経済を合理的に考えた場合、選択するということは、そもそも手段が不足している状態を示す。喉が渇いたときは、一杯の水を飲む、病気で動けない人には、誰かが看護する、これと同じこと。ただもう少し補足すれば、不足とは必要に対しての不足でもあるけれど、不足と感じれば不足していることになる。雑誌をみたらかわいい服があって、この冬はこの服がないと取り残されたような気分になる、というのならそれも不足ということ。ポランニーの言葉で言えば「不足のないところでの選択があるように、選択のないところでの手段の不足も存在することが容易に理解できる」というふうになる。そして、情報や刺激が無限に溢れる社会では「手段の豊富さが、選択の困難さを減らすどころか、増加させている」わけだ。

人間の経済というのは「経済的な制度と非経済的な制度に埋め込まれ、編みこまれている」という。僕らは経済をずいぶんと狭い意味でしか使っていなかったように思う。
最近、大森区と蒲田区が合併して、一文字ずつとって大田区ができたということを知った。ずいぶん味気ないミックスをしたなと思った。たしかに森蒲区とは言い難いけれど、汎用性の高い方の文字同士を組み合わせることもないんじゃないかなと。。。経済という文字もずいぶんと冷淡に感じるし、年々そのイメージを増しているようにも思えるけれど、元はもっと血の通ったものだったんだなぁ。。。

(続く)

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