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2011年11月

2011年11月26日 (土)

僕の極楽、あなたの極楽 ……僕の南無阿弥陀仏、あなたの南無阿弥陀仏。

すべてをひっくり返した法然という人はすごくって、南無阿弥陀仏と唱えることが、あらゆる経より修行よりも優っているとしたわけだけど
様々な因縁を抱えて生きる人にとって説かれた、念仏のみを唱えよという教えは今にも通ずると思う。

まずは自分にとっての極楽は何かということを知らなければならない。
そのうえで、あなたの南無阿弥陀仏に当たるのは何ですかか、なにを実践することですか、ということなるのだと思う。
それが今に通ずる解釈なんじゃないかと考える。

他力本願という言葉は、はじめから誰かを当てにするとことと誤解されるけれどもちろん全く逆。
自分の限りを尽くせば、そこから先開かれるもの、手を差し伸べる者が現れるということなのだ。

法然が比叡山のエリート僧侶達を批判したのは、その修行によって仏を目指すのであれば、結局それは自利の行為でしかないということ。
だからひたすら念仏を唱えることが何にも勝るとした。例え悪人であった者でも、そうすることで極楽への道が開かれるとした。

物質的な格差が拡がり、ネットによってフラットな空間が拡がり、夢か現かうつろいのこの世界。
僕の極楽、あなたの極楽。そこには何かしら共有できるものがあるだろうし。

僕の南無阿弥陀仏、あなたの南無阿弥陀仏。皆が行えば、少しづつ阿弥陀は手を差し伸べてくれるかもしれない、とか思ったりする。
せっせ、せっせとナムアミダブツ。。。

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2011年11月25日 (金)

二つ折りの財布・・・靴を作りながら感じたことをかたちにしてみた

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今まで革製品をすこしづつ作ってきたけれど、自分の中での本質的なものをつかめずにいて、どう作っていいものかいつも悩み、とりあえずいいなと思うものを真似して作ってみたりしていた。

靴の勉強を始めてから、ものを作って人に手渡すということについて、それまで以上に考えるようになった。革、もしくは革製品についても考えるようになった。

今の社会の中での革は、優れた素材というよりも、ステイタスの表現である面、つまりは高級素材として使われている感が強いと思う。
一方、よく耳にするのが、革製で高かったのに、こんなに簡単に壊れてしまって。。。という話。

靴や革製品は高級と頑丈がセットで考えている人が多い。

わかりやすいのは女性用の高級パンプス、これを話すとすぐに理解してもらえる。
manolo blahnikやjimmy chooなど、こういった靴はコンクリートを歩けばすぐにボロボロのなる。そもそも、運転手付きの車で移動してカーペットの上を歩く人たちのためのものだから。
でも革の財布となると、ちょっと驚かれる。高級な革の財布であっても、頑丈で丁寧な仕事故に高級なものもあれば、エレガントさをだす職人技故に高級なものもある。

だから英国王室御用達が売り文句のあるブランドの場合、エレガントさを重要視しているので、1年~数年でボロボロになる。
英国王室御用達だからといってエレガントであっても、頑丈ではないということ。

どちらが大切かは、買う人の考え方なので優劣はないと思う。

ただし作る方は、素材選び、作り方やディテールに生き方から、考え方が表現されてしまうということを意識しなければならないと思う。

そんなことを考えながら、試しに作った財布がこれ。まだまだ改良の余地はたくさんある。でも、やっと少し地に足がついて作ることを考えられたなったと思うのです。


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2011年11月19日 (土)

あいまいさ、すべてはあいまいなのさ

ふだん当たり前に口にしている単語がなぜか出てこない時がありませんか?その言葉の存在を知っているのにもかかわらず。だから、口から出ないもどかしさを強く感じますよね。

僕の父は十数年前にクモ膜下出血で倒れ、幸い今は元気なのですが、若干障害が残り、話せる単語が減りました。話している様子をみると、父もその単語が存在することはわかるのに単語が口に出せないようなのです。

けれど、なぜわからない言葉の存在に気付けるのか。おそらく、言葉は他の言葉によって定義されるということと関係があるかもしれないと思います。言葉、色、価値、僕らの存在、結局はまわりとの関係で輪郭ができてくるわけです。仏教なら空っていいますよね。

っていうとどうでしょう。定義があるものなんてないし、自ら正しいと証明できるものなんてない。でも、なんとなしに定義されるものがあり、時が刻み少しづつ積み上げたものが私であったり、あなたであったりする。

ならば、曖昧であるというのはそんなにも悪いことなのでしょうか。神は対立を強要されたのでしょうか。

比較宗教学者の町田宗鳳さんは十代の半ばから30の半ばまで臨済宗の僧として修行に励まれていました。無一文同然でアメリカに渡り、仏教を外から研究した方です。
町田さんは先日の連塾でこう話されました。二項対立の国で仏教のもつい曖昧さを、どう説明するかについて。「曖昧な部分を論理的に説明しようとはしません。曖昧さについて論理的に説明するのです。」と。
曖昧さは、曖昧さでいいんです。日本の曖昧さは対立をつなげ、一体化させることができるわけです。
対立がつくった世界は壁にぶち当たっています。ならばどうするか。日本の考え方にヒントがあるのではないでしょうか。

人は論理に頼れば頼るほど、絶滅の時を早めると思うのです。というと、いま不合理と言われてるもの、はたまた異人変人と言われるような人々が生き延びたりするではないですか、きっと。

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2011年11月 1日 (火)

メタボリズムの未来都市展、そして東京、ローカルな未来へ


Metabolism

メタボリズムの未来都市展へ行って、何かヒントを受け取ることはないだろう。あったとしてもそれはきっと反面教師的な何かでしかない、という思いで見に行った。

メタボリズムという運動は建築やデザインに携わった人でないとなかなか馴染みがないと思う。実際会場でも、メタボリック症候群と関連ないの?という小声がチラホラ聞こえてきた。。。やっぱりwww

会場の映像で川添登(批評家としてメタボリズム支えた)がメタボリズムという言葉が選ばれた経緯を話していた。
メタボリズムは新陳代謝という意味で、建築やデザインの生命力のようなものを示したかったのだそう。メタボリズムというと増殖のようなイメージが強いが本来それは一部でしかないとのこと。
新陳代謝がというテーマ先で、しっくりした言葉を探していたところ、和英辞典でメタボリズムが出てきたという。候補に上がった言葉には、輪廻転生、生々流転などあったそうな。
メンバーの人選について黒川紀章や菊竹清訓があまりにファンタジックな提案ばっかりするものだから、現実的な槇文彦や大高正人を入れたという話も面白い。

メタボリズムの建築は生命力がテーマになっている、といってもそれは環境との共生という考えはあまりなく、まるで巨大なロボットが年に登場するようなイメージのものが多い。メンバーたちは当時のどこまでも成長していくような都市に対してそれぞれが野心的な拡張のシステムを提案している。今の僕らが見れば、それらはまるでありえないことなのだけど当時はどの程度リアリティを感じていたのだろうか。

非建築家のヴィヴィアン佐藤さんは建築は弱いとよく言っている。六本木ヒルズ森タワーのような大きく頑強な建築も人や時代が変われば、あっさりと適応できない廃墟のようなものになってしまうのだからと。つまり単体であっても建築は弱い、それがシステムであればもっと弱いと言える。システムは全てを覆えない、いくら大きなシステムでもそれは結局内向きなものでしかなくて、拡張可能なシステムということ自体に矛盾を孕んでいる。

じゃあメタボリズムが今に何も残さなかったかといえば、そんなことはない。槇文彦の代官山ヒルサイドテラスは30年近くかけと少しづつ建築されてきた。ヒルサイドテラスの一連の建築は特にルールを設定していないながらも、統一感のある街並みをつくっている。やはり、システムのない創造の方が継続できるということなんだろう。

経済学者ハイエクは自由には、積極的自由と消極的自由があるといった。積極的自由とは、我々にとって自由とはこうだこういう社会を作るんだといった考え方。一方の消極的自由とは、社会を抑制するような権力や制度があってそこから自由になろうという考え方。ハイエクがいうのは、積極的自由はピューとぴあのようなものを作ったり、結局それを達成することで誰かが犠牲になるじゃないかということ。つまり、消極的な自由というのがあるべき自由なのではないかと言っている。
メタボリズムも積極的に未来を描いたものは長く続かないものであり、消極的に未来を示したヒルサイドテラスは代官山に馴染み、街並みをつくっている。

このメタボリズム展を見に行く前日AIT(http://www.a-i-t.net)の第4回東京事典で、森美術館館長南條さんの話を聞いた。これからの都市はセミラティスがキーワードになるという話だった。
セミラティスとは、ヒエラルキーがなく要素が関連しあうようなことで、それが東京なんだという話だった。そして、東京の衷心は空虚な皇居である。だいたい世界の都市は歴史的にヒエラルキーが存在し、レジスタンスがあり、自由を奪い合う経緯をもっている。東京はそれがない、とても稀な都市なのだ。
今東京をブランディング仕様という話がるらしい、でもきっとうまくいかないと思う。意図的に切り取って、際立たせるというのは東京らしくない。

システムというのは神や愛のように、誰かにとってもしくはその集団にとっての崇高なものであり、何かしらを排除してしまう。一方、セミラティスというのは心粋のようなちょとした親切で、見返りを求めないし、誰もが与え与えられるよう関係によるものなものなんじゃないかと思う。

建築の話からは少し離れるのだけど、AIT第4回東京事典でヒントとなりそうに思えた事を2つほど挙げたい。
アーティストの藤浩志さんが東京という都市の未来へとつながるヒントを与えてくれた。藤さんはこのように例える。土・・・その土地やその土地の人々。種・・・その土地にある特徴。風・・・外部からやってきて、何かをする人(アーティストやコンサルタント)。光・・・メディア、批評家。水・・・関心をもって集まってくる人々。藤さんはこの水に関心をもっていて、水を集め水で栽培をするにはということを考えながら活動をしている。
これまで都市や街を活性化しよという時、「土」や「種」もしくは「風」にばかりが取り上げられてきた。藤さんは、あまり注目されてこなかった「水」こそ活性化の重要なファクターなのではないかという。
「水」は流れにもなるし、さっと引いていくこともある。人々は好きなもの関心のあるものに直感的に集まり、飽きれば離れていく。この理性や論理や利己のあまり介在しない「水」という存在を

もう一つは、南條さんが話していた隙間。戦後の力強い復興をした日本と今の中国に共通することは社会に隙間があったこと。今の日本は社会がシステムで雁字搦めで新しいものが生まれにくいようになっている。一方、中国は社会が整備されておらず不安定ではあるものの、法を始めとし様々な隙間があり、それが社会を力強いものとしている。


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  メジロスタジオの試みは合理性を逆手に取るというかたちの隙間から生まれたクリエイションの一例といえるかも。。。


東京のみならず、日本は集団が点々としそれがひしめき合うようなことでバランスをとってきた。それが基質だったわけで、元来がセミラティスの性質をもっていた。
そんな日本が海外の都市にいくら倣うことを考えても、何も始まらないのではないかと思う。

もしメタボリズムの未来展に行かれるのなら、日本らしい都市をイメージし、遠い未来の影を感じとってみてください。

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