心と体

2010年9月 5日 (日)

The Sky Crawlers ・・・スカイクロラ

押井守監督のアニメーション映画『スカイ・クロラ 』を見た。
いまさらですが・・最近映画を見ていなくて。
( きちんと見たのは「少年メリケンサック 」以来。。。おいおい )

主人公は遺伝子異常で老いない身体を持ってしまったキルドレたち。
身体が破壊されない限り、死ぬことはない。
そんなキルドレの戦闘機乗り達の話。

生命を宿しつつ、死なない或いは死ねない彼らにとって生きているという感覚はウツロうつろな蜃気楼のよう。
生と死のコントラストがないということは、死がないということは生きているということなのか・・・。

だから空を舞い・・・。
生と死の空隙をブッ飛ばす。

敵と闘う・・・。
魂を剥き出しにして。

現実の生身の僕らは、生きていると感じられているのだろうか。
喜び、悲しみ、不安、怒りを感じる時だろうか。
人と交わる時だろうか、孤独な時だろうか。
安定した生活をしている方が幸せだろうか。
不安定ながらも変わりゆく日々である方が幸せだろうか。

キルドレは架空の存在だけど、あえて比べるなら僕らは少なくとも一つ大きなものをもっている。
生きることの他に、死に向える者であるということ。

生が有限だからこそ、生きたいという思いが生まれるのだろうし、
こうありたいと願うのだと思う。
生きる意味を求めるのだと思う。

いずれにしても生きることは
生半可であってはならぬと思う。

Sky_c_2

 

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2010年7月29日 (木)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その3

● 属性と自分らしさ

人が求める属性と社会が与える属性にはズレがある。でもいつしかそれを
基準に人は属性を求めていく。

僕は以前ハッとしたことがある。
自分を見失って、悩んで、息詰まっていた時ある人にこう言われた。
「自分の好きなようにやってみなさい」と。

そのあと、しばらく自分がやりたいように行動してみた。でも何か晴れな
かったし、満たされるものがなかった。
好きなようにやっているのに、開かれないし、自由にも思えない。
その時立ち止って考えた、そしてわかったのは「自分の好きなようにやっ
てみる」という中で、自分というものが殆んどが実は「世間」だったとい
うことだった。
この得体の知れない、大きく朦朧とした薄光りする「世間」というものを
自分から除去する作業はしばらくかかった。捨てるべきとわかったことで
もあっさり手放せない。
会社員、サラリーマンということに嫌気が差しながらも、実はそうである
ことに安心している自分がいたことにも気付かされた。
やりたいことを考える時に、「収入」ということをかなり重要視してい
ることにも気付いた。
自分が素敵だと思えるというより、社会的に素敵と思われていることを追いかけていることに気付いた。

このセケンという境界の重ね塗りの畦道には、属性というポイントが点在して、人はそこにおいてあるリボンを一つ一つ集めていく。
でもそんな集めねばと思って集めた属性は、いつまで自分の属性であり続けるのだろう。自分が求めた属性は、脆い、それが世間の産物であれ尚更脆い。

属性に含まれない、或いは属性とされないといったもののに本当のみるべきものがあるのではないか。
いきなり飛びついて得たような属性はあまりに脆弱で・・・そう思う。
人が求めてるのは、不安をきっちり通過したものであったり、日常からであったり、わかりやすく言えば、
私は○○でない、△△が苦手だ、自信がない、不安だ・・・こういったもの積み重ねの方に、人々が得たい本当のものがあるのではないかと。

あえて・・・言ってみました。

佐藤雅彦さんは、今回の展示は楽しむんじゃなくて、大きな疑問を抱えな
がら家路について欲しい、と話していました。
“これも自分と認めざるをえない”この言葉に隠されたものは何か、ぜひ考えてみてください。

(終わり)

※ 体験型の展示が多いので、人が少なそうな時に行くのをおススメします。

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2010年7月28日 (水)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その2

● 属性を求める人、属性に当てはめる社会・・・属、族、俗

人は心身の居場所を求める・・・属性を多く持てば持つほど、わかればわ
かるほど安心する。
自分のことを理解できないことは不安で仕方がない。
人はこうした属性を持つことを望む。
自分を知り、他人との違いを知りたがる。

男/女であること
結婚していること
サラリーマンであること
仕事が○○であること
肩書きをもつこと
年収が△△万以上であること
趣味が○○であること
個性があること
夢があること
目標があること
**座
血液型は#型
車は△△に乗っている
お洒落な○○を持っている
・・・

一方、社会は人々を属性で分類したがってる。
今回の展示では、入場後すぐに身体を計測する(数値は公開されな
いのでご安心を・・・)。我われ鑑賞者は最新の機器によってデータ化された身
体や動作の特徴
を属性として分類される。ここでの身体データはインスタレーションで使
われるので、計測された方が展示を楽しめるわけで・・・。

今、googleは検索ワードから人の興味を属性として分析して、ネッ
ト画面にしょっちゅう出てくるgoogle adにいかされている。
googleが社会の塊がその瞬間(とき)に何に関心をもっている
かを分析しているけれどしtwitterはつぶやきのタイムラインから
個人の思考の偏りや考えの変化を分析している。映画好きがtwitter
でどんな状況で映画を見ているのかつぶやく、どんなジャンルの映画で、
何処で、何を飲みながら、何を食べながら、誰と・・・それが昼なら、夜
なら、夏なら、冬ならと・・・。

展示の中に鑑賞者が何を見ているかわかるというインスタレーションが
あった。何を見ているかということは、何に興味があるとか、何を考えているかと
か、といった思考をスキャニングするのに近いと思う。
そのうち、動作や表情からだけでも何を考えているかがデータ化されるよ
うなことが起きてしまうだろう。
属性を明らかにすることで、人の思考をお金に結びつけることにな
る・・・だから何処までも研究は続く、たぶん行き過ぎるところまで。

その昔、経済学でお金に換算できないものが3つあるとされてい
た。
それは「労働(≒人)」、「土地」、「貨幣」
今は当たり前のように土地は売買され、貨幣にも価格がつけられ取引され
ている。
マルクスは「労働」つまり人という価値を基準に経済を論じた。今となっ
ては正社員という雇用形態は減り続け、企業側が責任を持たずに融通のき
く派遣やバイトばかりが増えていく。これで労働者の身体は確実に不安定
になった。さあ、この思考の属性を分析するということはどうなるのだろ
う、人は消費者として労働者として益々ばらばらで不安定で、市場にとっ
ては益々融通のきく存在となっていく・・・いつまで続くのか、何処で均
衡してくれるのか。

(続)その3へ

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2010年7月27日 (火)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その1

21_21 design sightで始まった佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と
認めざるをえない”展」ならびにそのオープニングトークに行ってきまし
た。

● 人は意外と自分に「無頓着」?

佐藤さんの話は「属性」をテーマに行われました。
いくつか興味深いことはあったのですが、その中の一番心の残ったことを
書きます。
それは、『人は意外と自分に「無頓着」である』ということ

魚や四足歩行の動物は、自分が存在することは知っているけど、自分の姿
を知らない。自分の群れ他の生き物を見ることが、己へとつながってい
く。
動詞で考えると、自動詞しかない・・・「歩く、泳ぐ、食べる」。

一方、人間やチンパンジーは二足歩行で手を自由に操る。視界に入る自分
の手の動きを通して自己の姿や存在を認識する。
動詞で考えると、他動詞もありえる・・・「食べさせる、殴る、運ぶ」。

鏡を鏡と認識できるのも手を操れる人間やチンパンジーなんだそう
で・・・
この展示のインスタレーションで自分の写らない鏡がある。
でもその状況を読み取りながらも、その鏡の前に立っても違和感をあまり
感じない。

これは魚や四足歩行の哺乳類からのDNAなのであろうか。
人は、自分の姿を見ることより、人を見て自分の存在を確認しているということなのかもしれない。
つまりは、自分の存在を確認するきっかけは常に他者にあるということな
のだろうか。
たぶん他者を見て、自分との違いを認識して初めて自分の存在を知
る、アイデンティティを認識しているのかもしれない。

(続)その2へ

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2010年4月11日 (日)

ホントのことは、思っている以上に脳に認識されている

テレビで学者さんが話していたコメントがおもしろかった。

露出の多い服装の女性を見ると、男性の脳では道具として認識すると。

ちょっと言い方悪いけど、目的を果たす為の道具・・・逆から言えば、一人の女性として見ない・・・と。

エロかっこいいみたいのって・・・一種のファッションだという人もいるかもしれない。
文化的に追求すると、その中に男を翻弄する女性…のようなカッコよさ含がまれていたり、遊女のようなアウトサイダー的なものを連想させるとか、色々な要素があるのだと思う。

でも、エロかっこいいには、男性は男性なりの目的、はっきり言えばスケベ心があって

女性にとっては、その男性なりの目的に呼応する形で注目を集めたいという要素は確実にあると思う。

こんなこと言うと、女性からは反論もされるかもしれないけど・・・。

でもこれって、結構興味深いことだと思う。
モテるという結果を求めたファッションなんだけど、それを見た方はそれの下心を認識し脳内では道具として選別している。

つまりは、送り手側が結果やその即効性を重視した方法や表現をとった場合、受けて側にもその意図が伝わってしまうということ。

これは物に対してはよくあることだと思う、例えば洋服なら生地の発色の鮮やかさや手触りや縫い方とかなどの五感を通した情報で脳は選別する。
本当にいいものか・・・、安売りようのものか・・・、職人魂を感じる・・・とか。
冒頭のの露出の多い服装の女性、対象にしているのは人である。人を対象にした選別に関しては、いわゆる「人を見る目」のような人生経験を経て獲得する選別眼みたいなもので人を認識し分類していると思いきや・・・少し意外だった。確かにこの場合は外見という表面的なわかりやすい部分ではある、けれど脳は物と同じような基準で選別していると知って、いろいろと頭の中を思い巡らされた。

道具や手段というのは目的があってのものである。だから、 ゴルフクラブを沢山揃えてもゴルフは上手くならないのと同じで、、知識や技術やお金を揃えても何にもならない。
道具や手段というのはまさに消費の対象であって、目的を達成しようと次から次へと代わりもとめたり、底知らずの青天井であれやこれやと益々拡充していくこととなる。
でも心は道具的なもので満たせるようにできていない。間に合わせの安堵くらいがせいぜい。

道具や手段も自分の心のフィルターを通すことでて自分にとっての本質的なものに昇華させることができる。
その本質的なものは言葉にはできない。でもそれは消費されないものとして確実に自分の中に蓄積されていく。

今、わかりやすさが本当に多すぎる。わかりやすさというのは結局疑似体験でしかないんだから。

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2010年4月 1日 (木)

完全に無駄な情報は存在しない…twitterから学んだ情報との関わり方

PCでこのブログを見ていただいてる方はおわかりと思いますが、最近Twitterをやっています。
右のサイドバーに出ているのが僕がtweet(呟く)したものです。
説明しろと言ってもなかなか難しいメディアで、始める前はとんでもない堕落メディアでケータイでゲームをするのと同じくらい時間を浪費するものと思っていました。
そもそもTWEETとは鳥のさえずりのことで、人々のさえずりつまり、呟きと意訳されています。
Twitterはイメージを強いて表現するならば、見知らぬ人たちの呟きや情報の怒涛のような流れ、って感じかな・・・。

瞬間的なだけに空間いっぱいに情報が拡散していくような、その中に埋没してしまいそうな気がします、
新しい情報が怒涛のように流れますが、つぶやきですから、そもそも重要な情報、考えられた情報なんてあまりありません。無駄な情報が殆んどです。
ただ、たまにとても冴えてる呟きや、すごく良い情報を得ることができます。

そんななので、Twitterをしばらくやっていると情報を整理せざるを得ない状況になります。
ジャンルで分ける、キーワードで分ける、僕にとって興味のの無い呟きばかりする人の情報を見えなくする・・・などなど。
まだまだtwitterとの付き合い方は模索中ですが、一つ良かったと思えることがあります。
情報について考えるきっかけとなったことです。

情報に接するときは、以下のことを意識するようになりました。
① 自分がその情報とどう関係して、どのくらい距離があるのか。
② 今だけの情報か、これからも必要なことか、普遍の真理的なことか、みたいな時間的な関わり。
③ 好き嫌い、喜怒哀楽など自分の気持ちがその情報に対してどう反応しているか。

①と②は情報を取捨したり、自分にとっての優劣をつけるようなこと
③は自分を知り、どうアクションを起こすかにつながる。

そんなにシッカリ意識するとそれこそ頭が狂いそうになると思いますが・・・
気軽にこんな感じでも良いと思う。
例えば、雑誌やネットでファッション、デザイン、アートなどの写真を見たとき 好き嫌いから入って…"なぜ?”と問う。
そして簡単で良いから答えを仮定する。
はじめは「シンプルで角張ってるから?」・・・程度で。
こんなことでも、繰り返し蓄積すると沢山の発見がある。

完全に無駄な情報は存在しないと思う。
それはその情報が自分にとって重要でないと判断を下すだけでも、自分を浮き彫りにするからです。
それでその情報には価値があったということ。
ただただ、ダラーッと情報に関わることが一番ダメなのです。

そんな感じです。

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2010年3月26日 (金)

自分をいかして生きる

「自分をいかして生きる」という本を紹介します。

タイトルを見ると自己啓発本みたいですが、違います。
自分の好きなことして、稼いで、幸せになろう・・・みたいなことは書いてありません。
僕なりの言い方させてもらえば、「生き方を問う」本です。

著者は西村佳哲さん。前作の「自分の仕事を作る」が良い本でしかもナガオカケンメイさんが薦めているので本書も読もうと思いました。
その前作ではデザイナーなどのクリエイティブな職種の人に取材をして、受身の仕事ではなく自分なりの問題意識で自分なりの仕事をどうっていけばよいか、というようなことが書かれています。
僕はこの前作をダメダメなサラリーマンをやっている時に読んでいます。本屋で救いを求めるように購入して読んだものの、書かれているのがそもそもクリエイティブな職種の方々であったので、単なるサラリーマンには参考にならないな・・・みたいな気持ちで読み終えたと記憶してます。もちろん西村さんの意図は違いますよ・・・むしろ逆でフリーでクリエイティブの最前線にいるという過酷な状況の人たちが実践している仕事のエッセンスこそ、普遍的で皆のヒントになるから書かれたわけです。

では「自分をいかして生きる」について。
今の世の中、書店に行って本のタイトルを眺めれば一目瞭然ですが、結果ばかりに囚われています。そのためのhow to 本や成功、仕事、生き方についての本・・・、できるだけ知識や技術をすぐに、簡単に学びたい・・・、目標管理やどうアピールするか・・・、こういった類の本がものすごく多い。
その求められる結果とは、言うまでもなく"金儲け"につながっているわけです。金儲けとは汚い言い方ですが、働かざるもの食うべからずという道徳観と相まって、経済的な視点から仕事や生きがいを考える面が強すぎるように思えます。
そんな昨今に対し、西村さんは疑問を呈したのがこの本です。人は「気持ちがあって、思考して、行動して、結果が出る」という順番でものごとを進めていく、それなのに今は「行動して、結果が出る」ところしか気にしなくなっている。「気持ちがあって、思考して」という段階をまるで無意味かのように扱い、そんな暇もないように急かしまくる。
西村さんはこの思考するその前の段階言葉にならない気持ちのような部分こそ重要だといっています。

そういった気持ちや思考を大切にした生き方とは何か、それはプロセスを重要とする生き方です。
本書に自動車デザイナー、家電のデザイナーを経て蕎麦職人をやっている加藤晴之の言葉があります。
「やりたいことが見つからないとか、面白くないということがあってもどの瞬間でも、その中で一番やりたいこ とは多分ある。今どうしたいか、ということ。それをやってゆくと何か見つかってくるんじゃないか」
プロセスを大切にするというのはこういう生き方です。

そういえば僕が学生の頃研究した建築家村野藤吾も「現在主義」という独自のイズムを掲げていました。
そんな村野さんの作風は一貫性の無さが指摘されることもありますが、そうではなく時代や環境によって、また変わりゆく気持ち村野さんの気持ちをその瞬間瞬間に精一杯表現したものでした。

人は終わりや目標がないと不安です。でもその時々を一生懸命に生きていくことが大切です。
あとがきで西村さんも言っていますが、自分がこの世に生を受けたことをどれだけ感謝して、自分をいかすか、これこそが生きがいなのだと思います。

新年度が始まります。こんな本を読むことも、遠回りなようで近道かもしれません。

ではまた

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2010年3月14日 (日)

捨てられぬ者、得るべからず・・・夢と幻想は違うよ

以前にも自分の余計なものを削ぎ落としていくことが新たな可能性を広げてくれる、みたいなことを書きました。

今回は少し違った面から。

人間生きていれば、将来や進路について悩むわけで。
悩みに悩んで手にとってみた本にはこんな言葉が書いてあると舞い上がっちゃうわけで。
「好きなことを仕事にしよう」「本当の自分を表現すればいいんだよ」「遅すぎることはないんですよ」・・・
確かにその通りとも思います。僕自身そんな言葉に勇気付けられたこともありますし。
でも「捨てられぬ者、得るべからず」という言葉を添えて欲しい。
(でも書かないんだよね、自己啓発系の本は厳しいこと書くと売れなくなっちゃうから。可能性を開くだけ開いてさ)

僕のブログのサブタイトルは確かに「夢をもって生きよう」です。
だから夢はもって欲しいけど、幻想は少しづつ捨てていって欲しい。

将来や進路について悩む人は沢山選択肢をもってる・・・持ち過ぎている。
何でそんなに選択肢をもてるのか・・・それは可能性を見ているから。
その沢山の選択肢のそれぞれにできるかもしれないという希望を見ているから。

宮大工の棟梁は大卒は採用しない、中卒を採るという話がある。
中卒の人は自分が何もできず、ここで収入を得るしかないという自覚で入ってくる一方で、大卒はそれなりにできることがあって、大工の道がダメなら別の道という保険があると思っている。
これが仕事の姿勢にでるから大卒は要らないとなる。
スポーツ選手も同じ、浅田真央ちゃんだって、石川遼くんだってもちろん才能あってのことだけど、そればっかに集中させた親の存在がいたりすると思う。
昔は丁稚奉公だったり、経済的な理由でやむなしみたいな半分諦めの形で、それが自然な形で「退路を断つ」「背水の陣」になっていた。
それが一所懸命な態度として表れる。

だから将来や進路について悩んでいる人、悩める時点で、かなり幸せだということ。
その自覚がスタートであると思う。

あと一つ。
僕もそうですが、デジタルになれた若者で自分で何かを生み出して生きたい人は自覚しておいた方がいいことがあります。
それはPCやインターネットです。これらは諸刃の屋というか、すごく便利で表現の可能性を広げてくれるのは確かだけど、ある程度のものが簡単にできてしまうこと。
昔はデモテープ一つだってかなりの気合が要ったはず。グラフィックだってその色を出すのに何度も何度も試す根性が要ったはず。
そのデジタル機器なりソフトなり使いこなせただけでなんとなく8割、9割はプロに近いものができてしまったりする。
もちろんそっから先は険しい。でも自分には可能性があるように思えていつまでもそこに拘ってしまう。

夢と追いながら、「捨てられぬ者、得るべからず」を意識してましょう。

人にこうやって伝えながら、自分も地面を確り蹴っていくよう自覚させているんですがね。

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2010年1月31日 (日)

成長の条件

どんな時、人は変われるのか。

根っからのポジティブな人ってなかなかいないわけで、
成長しながらポジティブに生きることを会得していく。
どんな時に成長するかといえば、もちろん大きな苦労、
失敗や挫折を乗り越えた時なわけで。

ただね、ずっとずっとなぜかな?と思っていたことがあります。

自分を省みて、周りの人を見て、
そんな困難を乗り越えても変われない場合もある。
この人はなんでこんな大変な思いをしてきたのに変わらないのか…とか、
何でだろうって。

今日友人と話しながら、わかった…成長に必要なもう一つの条件が。
それは苦難をのり越える時に、人に頼らない、
若しくは人に頼れない環境下であること。

どんなに辛いことでも、人をあてにしてこなしたことは
ただの学びのない辛い思い出にしかならないということ。

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2009年11月23日 (月)

やりたいことがいくつもある人へ

仕事や生活のことでやらなきゃならないことがいくつもあるとき、
どうやって対処しますか?
こんな時はどうにかせざるを得ないので、
どうにかこうにか、優先順位をつけて片付けていくと思います。

では、

やりたいことがいくつもある場合は、どれから手をつけますか?

つまり、自分がこんなふうに進んでいきたいとのような考えて、
どうやって優先順位を決めるかですね。
やらなきゃならないことの場合と違って、こちらは自分に選択権があるわけです。

仕事の場合と違って、基準も自分の内にあるのですから
こっちはこうであっちはああで・・・じゃあどっちをしよう
なんて決め方はなかなかできない・・・。

僕はこんなときこう考えます。

「 どちらのがカッコいいか! 」

ずいぶん軽い表現ですけど

これは何かというと、自分自身を他人の目で見てみるということです。
誤解しないでくださいね。
他人の目を気にするという意味ではないですよ。
こう考えることで自分と他人の中間地点から自分を見れます。

仕事が良くできる人でも、世渡り上手で頭のよい人でも
いざ自分に生き方の選択権が与えられるとなかなか上手く考えられない人がいる。
自分の中で、いくら考えてもどれも答えであるようなないような。
どういった行動をとればいいのか、どっちのが好きなのか
こっちのがお金がかかる/かからないとか、
こっちのが楽だと大変そうだとか・・・グルグルと。

だから一旦外へ出てみるのがいいんです。
そしてこう考えてみる

数日後、数ヵ月後、数年後振り返って
自分がカッコいいと思えるには
今何をすべきかと

自分の本当の気持ちは自分しか知らない・・・だけど選択に迷う自分。
一方で、他人の生き方について、あの人の生き方はスゴイなとかカッコいいなと判断できる自分がいると思います。
カッコいい生き方というのは、本人の気持ちと現実がによって成り立つものです。
自分よがりな人の生き方はカッコよくないですし、
他人や世間ばかりを気にした人の生き方もカッコよくない。
だからこの自分と他人の視野がが平衡状態にあるというか
上手く交錯したこのカッコいいという見方をすることが、
自分を振り返ったり、今後を考える為に丁度良いのです。

日常の小さなことから今後を左右することまで

あなたはどういう生き方の人がカッコいいと思いますか?
その視点で自分を見てみてください。
すると些細なことは気にならなくなると思います。

たとえ、すぐに結果が出せなくてもいいんです。
あとでカッコよいのなら。


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