文化・芸術

2011年11月19日 (土)

あいまいさ、すべてはあいまいなのさ

ふだん当たり前に口にしている単語がなぜか出てこない時がありませんか?その言葉の存在を知っているのにもかかわらず。だから、口から出ないもどかしさを強く感じますよね。

僕の父は十数年前にクモ膜下出血で倒れ、幸い今は元気なのですが、若干障害が残り、話せる単語が減りました。話している様子をみると、父もその単語が存在することはわかるのに単語が口に出せないようなのです。

けれど、なぜわからない言葉の存在に気付けるのか。おそらく、言葉は他の言葉によって定義されるということと関係があるかもしれないと思います。言葉、色、価値、僕らの存在、結局はまわりとの関係で輪郭ができてくるわけです。仏教なら空っていいますよね。

っていうとどうでしょう。定義があるものなんてないし、自ら正しいと証明できるものなんてない。でも、なんとなしに定義されるものがあり、時が刻み少しづつ積み上げたものが私であったり、あなたであったりする。

ならば、曖昧であるというのはそんなにも悪いことなのでしょうか。神は対立を強要されたのでしょうか。

比較宗教学者の町田宗鳳さんは十代の半ばから30の半ばまで臨済宗の僧として修行に励まれていました。無一文同然でアメリカに渡り、仏教を外から研究した方です。
町田さんは先日の連塾でこう話されました。二項対立の国で仏教のもつい曖昧さを、どう説明するかについて。「曖昧な部分を論理的に説明しようとはしません。曖昧さについて論理的に説明するのです。」と。
曖昧さは、曖昧さでいいんです。日本の曖昧さは対立をつなげ、一体化させることができるわけです。
対立がつくった世界は壁にぶち当たっています。ならばどうするか。日本の考え方にヒントがあるのではないでしょうか。

人は論理に頼れば頼るほど、絶滅の時を早めると思うのです。というと、いま不合理と言われてるもの、はたまた異人変人と言われるような人々が生き延びたりするではないですか、きっと。

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2011年11月 1日 (火)

メタボリズムの未来都市展、そして東京、ローカルな未来へ


Metabolism

メタボリズムの未来都市展へ行って、何かヒントを受け取ることはないだろう。あったとしてもそれはきっと反面教師的な何かでしかない、という思いで見に行った。

メタボリズムという運動は建築やデザインに携わった人でないとなかなか馴染みがないと思う。実際会場でも、メタボリック症候群と関連ないの?という小声がチラホラ聞こえてきた。。。やっぱりwww

会場の映像で川添登(批評家としてメタボリズム支えた)がメタボリズムという言葉が選ばれた経緯を話していた。
メタボリズムは新陳代謝という意味で、建築やデザインの生命力のようなものを示したかったのだそう。メタボリズムというと増殖のようなイメージが強いが本来それは一部でしかないとのこと。
新陳代謝がというテーマ先で、しっくりした言葉を探していたところ、和英辞典でメタボリズムが出てきたという。候補に上がった言葉には、輪廻転生、生々流転などあったそうな。
メンバーの人選について黒川紀章や菊竹清訓があまりにファンタジックな提案ばっかりするものだから、現実的な槇文彦や大高正人を入れたという話も面白い。

メタボリズムの建築は生命力がテーマになっている、といってもそれは環境との共生という考えはあまりなく、まるで巨大なロボットが年に登場するようなイメージのものが多い。メンバーたちは当時のどこまでも成長していくような都市に対してそれぞれが野心的な拡張のシステムを提案している。今の僕らが見れば、それらはまるでありえないことなのだけど当時はどの程度リアリティを感じていたのだろうか。

非建築家のヴィヴィアン佐藤さんは建築は弱いとよく言っている。六本木ヒルズ森タワーのような大きく頑強な建築も人や時代が変われば、あっさりと適応できない廃墟のようなものになってしまうのだからと。つまり単体であっても建築は弱い、それがシステムであればもっと弱いと言える。システムは全てを覆えない、いくら大きなシステムでもそれは結局内向きなものでしかなくて、拡張可能なシステムということ自体に矛盾を孕んでいる。

じゃあメタボリズムが今に何も残さなかったかといえば、そんなことはない。槇文彦の代官山ヒルサイドテラスは30年近くかけと少しづつ建築されてきた。ヒルサイドテラスの一連の建築は特にルールを設定していないながらも、統一感のある街並みをつくっている。やはり、システムのない創造の方が継続できるということなんだろう。

経済学者ハイエクは自由には、積極的自由と消極的自由があるといった。積極的自由とは、我々にとって自由とはこうだこういう社会を作るんだといった考え方。一方の消極的自由とは、社会を抑制するような権力や制度があってそこから自由になろうという考え方。ハイエクがいうのは、積極的自由はピューとぴあのようなものを作ったり、結局それを達成することで誰かが犠牲になるじゃないかということ。つまり、消極的な自由というのがあるべき自由なのではないかと言っている。
メタボリズムも積極的に未来を描いたものは長く続かないものであり、消極的に未来を示したヒルサイドテラスは代官山に馴染み、街並みをつくっている。

このメタボリズム展を見に行く前日AIT(http://www.a-i-t.net)の第4回東京事典で、森美術館館長南條さんの話を聞いた。これからの都市はセミラティスがキーワードになるという話だった。
セミラティスとは、ヒエラルキーがなく要素が関連しあうようなことで、それが東京なんだという話だった。そして、東京の衷心は空虚な皇居である。だいたい世界の都市は歴史的にヒエラルキーが存在し、レジスタンスがあり、自由を奪い合う経緯をもっている。東京はそれがない、とても稀な都市なのだ。
今東京をブランディング仕様という話がるらしい、でもきっとうまくいかないと思う。意図的に切り取って、際立たせるというのは東京らしくない。

システムというのは神や愛のように、誰かにとってもしくはその集団にとっての崇高なものであり、何かしらを排除してしまう。一方、セミラティスというのは心粋のようなちょとした親切で、見返りを求めないし、誰もが与え与えられるよう関係によるものなものなんじゃないかと思う。

建築の話からは少し離れるのだけど、AIT第4回東京事典でヒントとなりそうに思えた事を2つほど挙げたい。
アーティストの藤浩志さんが東京という都市の未来へとつながるヒントを与えてくれた。藤さんはこのように例える。土・・・その土地やその土地の人々。種・・・その土地にある特徴。風・・・外部からやってきて、何かをする人(アーティストやコンサルタント)。光・・・メディア、批評家。水・・・関心をもって集まってくる人々。藤さんはこの水に関心をもっていて、水を集め水で栽培をするにはということを考えながら活動をしている。
これまで都市や街を活性化しよという時、「土」や「種」もしくは「風」にばかりが取り上げられてきた。藤さんは、あまり注目されてこなかった「水」こそ活性化の重要なファクターなのではないかという。
「水」は流れにもなるし、さっと引いていくこともある。人々は好きなもの関心のあるものに直感的に集まり、飽きれば離れていく。この理性や論理や利己のあまり介在しない「水」という存在を

もう一つは、南條さんが話していた隙間。戦後の力強い復興をした日本と今の中国に共通することは社会に隙間があったこと。今の日本は社会がシステムで雁字搦めで新しいものが生まれにくいようになっている。一方、中国は社会が整備されておらず不安定ではあるものの、法を始めとし様々な隙間があり、それが社会を力強いものとしている。


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  メジロスタジオの試みは合理性を逆手に取るというかたちの隙間から生まれたクリエイションの一例といえるかも。。。


東京のみならず、日本は集団が点々としそれがひしめき合うようなことでバランスをとってきた。それが基質だったわけで、元来がセミラティスの性質をもっていた。
そんな日本が海外の都市にいくら倣うことを考えても、何も始まらないのではないかと思う。

もしメタボリズムの未来展に行かれるのなら、日本らしい都市をイメージし、遠い未来の影を感じとってみてください。

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2011年7月 5日 (火)

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」@21_21 DESIGN SIGHT

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倉俣史郎&エットレ・ソットサス展を見ていたら、学生の頃読んだロバート・ヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」を思い出した。彼の考え方には、共感するものがあったけど、何故彼の建築はこの表現なのかと腑に落ちなかった。

ポストモダンの表現は、今から振り返れば受け入れ難いものが多い。どう考えてもただの記号の寄せ集めではないか、言葉遊びをするには建築というのは、強い存在で在り過ぎる。
建築学科に在籍していた頃、教授の中にはポストモダンの生き残りみたいな方もいらっしゃって、時代遅れだダサいと若気のいたりで小馬鹿にしたものだった。
じゃあ自分なりにモダニズムを批判したのかといえばそうではなく、今はこれだとオランダ建築に飛びついた。レム•コールハースに未来をみて、卒業設計も見事にコケた。。。アホな学生であった。
けれど、建築からは年々縁遠くなりながらも今回この展示を見て、ポストモダンを自分なりに問うこととなった。

今の建築、デザインは当然のことながらモダニズムを批判したポストモダンを経ている。モダニズムという思想は時を超えて常に問われる理性のデザインであって、それを批判することはなかなか骨の折れるはずだ。三十路も超え、ただただカッコいいとか、ポップでイケてるとかそんなことへの興味は年々萎えてきている。そんな今の自分には一つのいい問いのように思えた。

ポストモダンがノッていた時代、当時は経済成長がエンドレスかもしれないという幻想があった。西欧資本主義のイェス¥e$(eはユーロ)からChina元になるかもしれない現在、やっぱりポストモダンについて考えなければ、モダニズムは終われない。

今回の展示で表現の仕方を批判することは、 全く意味がないと思う。二人が目指したのは人間らしさへの回帰だ。モダニズムが排除した多様性や曖昧なもののなかに生命の根源を見出そうとした。

倉俣史郎さんの作品を眺めていると、吉岡徳仁さんはその継承者なんだとつくづく思う。素材を極め、あっと驚くレベルまで昇華する。
数十年後の活躍している吉岡さんの方が、加工技術の進歩もあるし、洗練された表現をしていると思う。けれど生命の表現では、倉俣さんの領域にはまだ到達していないと思った。

倉俣さんは時とともに変化する素材を好まないと言っている。僕は素材が経年で変化していくことが諸行無常で、受け入れるべきことと思っている。だからこの言葉を噛み締めてみたいと思った。
確かに、倉俣作品は時間が止まっている。生命を表現する時、有機的なモチーフを使うデザイナーが殆どだと思うけど、彼は全く違ったアプローチをしている。それにどうだろう。僕には椅子にもテーブルにも人が不在に思えた。もちろん有名な傘立てのような深澤直人さんへと繋がりそうな、遊びのあるものもある。
透明なアクリルの中に真っ赤な花を埋めた椅子ミス•ブランチ。閉じ込められた生々と死んでいる造花、装飾を排除しガラスのエッジを見せたり、割れたガラスをテーブルにしたり、その素材にとっての生と死のキワを 、その儚きキワの一瞬を形にすることで、生命を表現しているように思う。

天晴れの美、それが倉俣デザインなのかな。押井守のスカイクロラは、キルドレという大人になれない戦闘機乗りが空中でバトルすることでしを感じることで生を自覚できるといった。天晴れは哀れが転じてた言葉だ。死との瀬戸際を生きる武士を讃えた言葉が、天晴れ。

今回の展示でエットレ・ソットサスが最晩年にスケッチしたガラスの器を多数見ることができる。建築やプロダクトを手がけたデザイナーにしてはロジックの一切ないユーモラスでカラフルで、ガラスのオブジェ。そのスケッチはまるで小さな子どもが描いたもののように見える。
銘品と言われるオリベッティのヴァレンタイン(タイプライター)をデザインした彼が、メンフィスではカラフルで積み木遊びのようなものをデザインした。つまり、ソットサスにとってのポストモダンは、モダニズムが排除した多様性を取り戻すことだったわけだ。彼はそこに人間らしさを求めた。

2人にとってのポストモダンは人間らしさを追い求めながらも、全く違ったアプローチだったわけだ。西洋の強固なロジックから抜け出し自由な発想を目指したエットレ・ソットサス。日本という比較的に生きることに恵まれた環境で、更に経済成長の混沌の中に惰性で生きることは半ば死んでいると言わんばかりに、生死の境界を突いた倉俣四郎。
21世紀も10年経過し、大震災や原発の問題を抱えながらも、相変わらず問題をすぐ2択にしたり極論に振れて思考停止してしまう社会に唖然とする毎日。まずは、豊かさより先に人間らしさがあるということを再認識しない何も変わらない。人間らしさってなんだろううと、考えながら生きるということはアーティストのみならず、誰もが抱えるべき問題だと思った。

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2011年3月 4日 (金)

【book martin 41928】 008村上隆『芸術家起業論』『芸術家闘争論』

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僕が学生の頃、Rem Koolhaasという建築家にすごく惹かれました。斬新で、ポップで、不可解で、しかも資本主義というものをまるで手中にしているような感さえある。学生の間では、少ない頭で彼を読み解いてみようとする・・・といっても全然理解出来ていなかったのですが。。。
最近のRem Koolhaas及び彼の建築事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)についてはよく知らないのですが、たまに雑誌やネットで見かけると、ある部分で彼の建築がも変わってきているように感じます。

Rem01

彼の設計手法は大きく変わっていないと思います。それはプログラミングといってデータをベースにして建築を構築していく方法です。例えば、シアトル図書館は世界中の図書館を研究した結果であり、またハーバードでは資本主義の原動力であるShoppingの研究をしたり、建築の外での建築活動をAMOという形でマーケティング、ブランディング、コンサルティングをするといったように、人間の行動や経済との関わりを緻密にリサーチし解析していく。建築としての彼の面白みはこれらの上にあって、現実のデータが、既存概念の概念を超えて、予想外の形態として現実化するということです。あえてデザイン上の作風といえば、そういった既成概念を超えた部分を誇張したかのように形にすることで、スタイリッシュな中に意外性やアンバランスな感覚を持ち込むことでしょうか。そして発表される建築は見るものに毎回斬新さを感じさせます。

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変わってしまった部分の話に戻りますが、これがこの村上隆の著書につながってくるのです。僕らが学生であった頃、彼のプログラミングの話は難しくついていけないところがあった。そうすると結局、彼の意匠(デザイン)の話が中心になってきます。特に彼はポップでクールな意匠に過去の巨匠、特に近代建築の二大巨匠であるル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエの建築言語(デザインの表現手法)を批判的に使ったり、時にはコルビュジェの写真を真似たりもした。学生時分の僕らはプログラミングの話は放って、その読み解きの方に夢中になった。僕らだけではない、当時は文系な建築系の雑誌がまだあって、批評家たちもRem Koolhaasの意匠について論じていた。そして僕らは批評家たちの読み込みを読み込んで。。。と、そんな具合であった。
その後、Rem Koolhaasは意匠的な解釈云々というレベルでのことに興味が薄れてきたのか、徐々にデータを用いるの手法にどんどん進んでいったようです。特に中国をはじめとする急速に変化する新興国で新たな建築が生み出すことの方が興味深かいのでしょう。

Rem02

実は今回、村上隆さんの著書『芸術起業論』(2006年)と近著『芸術闘争論』(2010年)を連続して読む中で、Rem Koolhaasのやっていたことが氷解しました。この本には現代アートシーンを理解する前提を分かりやすくして説明してくれています。なおかつ、芸術家を志す人のためには芸術でお金を稼ぐ方法、つまり作品を売るための方法が書かれています。言うまでもなく、これらは勿論デッサン力など、ある程度の技量、実力はある、という前提での話。
まずアート市場の中心が西欧であることと、そのアート市場で作品を買っているのは主に富裕層であるという前提があります。市場性から真逆にあるかのように思える芸術であるけれど、一つの商品として考える場合はどうしてもこの文脈を外せない。ここに、海外で成功できる日本人芸術家が少ない理由があるというのです。

村上隆さんがいう西欧における現代美術のコンテクスト(文脈)とは以下の5つ。
自画像
エロス

フォーマリズム(ここでは歴史を意識すること。「厳密には内容より形式を重視し、形式的要素から作品を解釈しようという美学的傾向」のこと)
時事


日本であれば何々流といったように流れがあって、そのなかで異端な作家なんかがいて、新たな流れを生む。。。といった感地がしますが、西洋はやはり論理的で、新たなロジックで超えていくという感じがします。闇雲に自己陶酔的にオリジナリティを追求してもダメで「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」が大切といいます。そのためにはまず歴史を学べと、特に戦前戦後付近から現在に至る歴史を重点的に学べと言っています。他にもアートについての意外なことが書いてあります。日本人のアーティスト像はひとつの作風を生涯かけて創り上げていくようなものがありますが、アート市場では全くダメなようです。現代美術の世界ではアーティストに振り幅が求められる。常に新しい何かを感じさせる存在でなければならないのです。

Hiropon

村上さんがオタク文化を現代アートとして表現するとき、フィギュアを等身大にデカくしたりとか、ただ表現に新しさがあるというのではなく、それを美術史とつなげていく作業もをしていく。例えば、10年以上前でしたが、村上隆が「SUPER FLAT」という概念を掲げたことがありました。日本美術の2次元性やオタクの漫画の2次元性のつながり、またIT革命やグローバル化を通して、垂直的、ピラミッド的、中央集権的な世界の関係がフラットになっていく様子などFLATにはアートのそして世界の現状との関わりが込められているのです。昨年ベルサイユ宮殿で行われた大規模な個展も、歴史的な過剰な装飾とサブカルでオタク由来のアートがマッチングしているというか、させているように見せることのスゴさを感じます。

Rem Koolhaasがかつてやっていた巨匠からの批判的な引用は村上隆が現代アート界でやっていたことと同じことだな・・・おそらくと・・・思うわけです。実はよくデザインのサイトDezeenをよく見るのですが、新たな造形というより既成概念を抽象的にしたり、批判的に利用したもの、その上でスタイリッシュだったり新鮮だったりするものが多いなとも感じていました。建築史上の或いは美術史上の文脈にのせることで批評性のある作品にする。それが各分野の評論家の目に留まり論じられる。閉じているといえば閉じている、逆にわかる人にはわかるという構造になっているということなのです。
だから村上さんはこの構造を理解した上で、勝負しなきゃお金にはならない。儲けようとかではなく、食えるアーティストにならなければ、作品を作り続けていくことができないんだと。

もう一つ日本の美術教育の有り様をものすごく批判しています。美大・芸大へ入学する前に美術予備校でデッサンはとてもうまくなる。それは世界で他に例を見ないほど、日本の誇れる独自の教育システムだと。なのに、いざ美大・芸大へ入学すると宗教のように個性的なものを創れとばかり叩き込まれる。また、日本ではゴッホのように芸術家は金に貪欲であってはならない信仰が強い。自分だけのオリジナリティを独力で形しないといけない、みたいなことを思っている。
村上さんはそれじゃダメだと言っている。だから自身の工房カイカイキキでは徒弟制度のようなことをやっていて、村上隆の下働きみたいなことをしながらも、芸術家としての哲学的な部分から叩き上げるみたいなことをしている。

この本は現代美術作家になりたい人にとっては必読でしょう。村上隆さんを知りたい人も必読でしょう。アート鑑賞好きの人にとっては、現代アート基礎の基礎となる仕組みを分かりやすく説明してくれています。そして、アーティストたるものがなぜマイノリティで、アナーキーで、破滅的で謎めいたものでなければならないのか。演じる者、読み解く者、それを盛り上げる者、遠いところから眺める者・・・こういった構造が世界の一つの断面であるということ。オタクなものがロー・アートが最先端のハイ・アートになるというようなこと。。。

村上隆のFM芸術道場はなかなかおもしろいです。ポッドキャストでも聴けます。

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2010年10月23日 (土)

ネイチャー・センス展/ SENSING NATURE

Sensingnature


○ 今日はね「ネイチャー・センス」展へ行ってきたんだよ。

● 「ねーちゃん、扇子」展・・・ジュリアナ・・・むふふ懐かしいねぇ・・・いい時代だったねぇ

○ 入るとねでっかい箱に羽根が舞ってるわけ、異空間

● なるほどジュリ扇が激しく舞ってるわけだね・・・オシリもうねってるわけね・・・そそられえるね・・・行ってみたくなるねぇ

○ 大画面のスクリーンも迫力あったなぁ

● そーだよね欠かせないよね

○ それから真っ赤な血みたいのが、不思議だった。

● 女をめぐる争いだね・・・いいオンナいたもんな

○ 雪山の林もキレイだったよ

● ユキ山野の足がきれいだった・・・誰かな?でも見たいかも

○ 会場に山がそびえていたりね

● お立ち台だね・・・ボディコン・・・パンチラ・・・Tバック・・・いいねぇ

・・・この展開ちょっと辛くなってきた。。。


こんな感想は参考にならないって?
だって・・・参考にして欲しくないから、是非行って体験して欲しいから

少し真面目な感想を書けば

3人のアーティストが凝縮した自然を感じてみる。
それは自然とは違った自然だけど、言ってしまえば人工物の自然だけど

何かと自然のせいにしたり、あたりまえに思っている自然を
少し違った方向から気付さられると思います。

ただ、一つ考えたことというか気付いたことは、上手くいえないのだけど作品における質と量のこと。
作家の意図とは思いたくない、キュレーターの意図で無理にこうなったと思いたいのだけど、
大きいものや迫力という表現に偏りすぎではないかということ。

栗林隆さんの作品は十和田市現代美術館でも見たものと似ているのだけど、つまらなくなっている。十和田のそれは頭を突っ込むとそこは箱庭に詰まったジオラマがある。
箱庭というのは一つの宇宙であり、別世界なわけで、頭を突っ込むことでこっちの世界からあっちの世界を覗く妙な気分が作品の面白みであると思う。でも今回の作品はでかすぎる故に、別世界でもなくリアルな風景になってしまっている。白い空間に、他人の頭が浮かぶというのはオモシロいけど、それはこの作品の2次的な産物で、本来の意図としてはスケールアウトだと思う。

篠田太郎さんの水滴が落ちる作品は、水滴が落ちてできる波紋が重要なのだけど、プールが大きすぎて波紋が。。。
篠田さんは本当にあんな大きなプールを望まれたのかな?と思いました。

吉岡徳仁さんの羽根の舞うSNOWは、ああいう表現が適切と思う。けど、あれほど大きなガラスを吉岡さんは望んだのだろうか。

母なる自然の生み出す広大な風景だけど、それを量として表現しようとするのには疑問が残る。
日本の文化は小さな宇宙が大きな宇宙を想像させるところにある。
あまり批評は書かないつもりだったのだけど、今回の展示に関してはよい作品になり得たかもしれないのに、収益性を意図し過ぎて失敗しているような気がしてつい書いてしまった。
もっと小さく適当なサイズやればもっと洗練されたものができたように思えて仕方がない。

今回の展示はアートともインスタレーションとも呼べない。。。エンターテイメントかなと。
ハリウッド、EXILE、AKB48にも通ずる量の演出。

そしてどこか六本木ヒルズという存在にも通ずる展示だったように思えます。
なんか悔しい。

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2010年9月15日 (水)

『ゴールドコンサート』をご存知ですか?

『ゴールドコンサート』をご存知ですか?

どんなコンサートかといいますと
障害をもったミュージシャンのコンテストです。

と読んで、皆さんいろんな感じ方があると思います。
・・・なのであえて(乱暴な言い方で)言わせていただきますと。聞き苦しいとかは絶対ありません。
演奏や歌には支障のない障害或いは努力で壁を乗り越えながら活動しているミュージシャンで、きちんと審査を通過した人のみが舞台に上がってます。

ジャンルは様々です。
昨年はゆずみたいなギター弾き語りもいれば、バイオリンの演奏もあればロックやJAZZもあり

ちなみに昨年優勝したバンド「珍獣王国」です。
カッコええでしょ!↓

またまた乱暴な書き方をさせていただけば、助け合いの気持ちとかがなくても、チケット代の元は十分取れる満足度がありますよ。

そしてすごく純粋な力をもらえると思います。

●「第7回ゴールドコンサート」

2010年10月3日(日)
開場 15時30分 / 開演 16時30分

東京国際フォーラム ホールC

URL: http://gc.npojba.org/7

SS席指定 3,500円
S席指定 3,000円
A席自由 2,000円
………………………

もちろん。僕も行きます。

興味を持たれた方ぜひ行ってみてください。

また、行く行かないは別にして、このコンサートのことを宣伝して頂けるとありがたいです。

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2010年8月13日 (金)

マン・レイ展 知られざる創作の秘密 ・・・あなたのMan Rayは見えますか?

Man Ray(1890-1976)・・・シュールレアリズムの写真家。
これが多くの人が認識する肩書き。
COOLなアーティストと思っていたけど展示を見終えて印象が変わった。

本名Emmanuel Radnitzky
略してMan Ray

Man Rayと名乗りだしたのは写真をとり始めた頃と重なる。
つまり、

その男、光線につき

とでもいうことか。野心に溢れた名前である。
時は1915年、アインシュタインの特殊相対性理論によって光が神となった10年後のこと
事実彼は、光線として生きる。

●画家にして写真家、写真家にして画家

マン・レイとってこの違いは、天と地だ。
何よりもまず自分は画家であるはず・・・と。
しかしながら世間は彼を画家とは呼んでくれない。

そもそも自分の作品の記録の為にはじめた写真。
画家としてなかなか芽がでなかった彼は、写真家として食い繋ぐ。
他の芸術家の作品を撮影するという臍(ほぞ)を噛む思いもしばし経験する。

ニューヨークではマルセル・デュシャンなんかとつるんでニューヨーク・ダダの活動をしたりする。
当時、前衛芸術の中心はパリでデュシャンが渡仏すると、レイも後を追うことになる。
デュシャンは既にビッグネームだった。彼のおかげでマン・レイはニューヨーク・ダダの主要メンバーとして迎えられる。

●反転し続けるポートレート

マン・レイは光のごとく一途な男であり、策士でもある。
パリではモード界の重鎮ポール・ポワレに認められ、ファッション写真でその名を馳せる。
彼にとって、生きるための手段であった写真。写真あればこそ生きられたし、芸術を続けられた。
沢山のポートレートからも見て取れるように、著名な族ともつながれた・・・人脈の作り方については、運がいいのか強かなのか、いずれにせよ写真という実があったからこそだ。

ソラリゼーションやレイヨグラフのように写真の可能性を広げる試みをするも、腹の内には常に絵を描くことへの、絵画こそが芸術であるという彼のこだわりがチラつく。
人生というのは皮肉というか、それでこそ人生だし、このアンビバレンスなマン・レイの生き方が垣間見えるからこそ本展は面白い。
写真こそがマン・レイなれど、写真こそがマン・レイにとっては矛盾・・・。
でもこの矛盾、ポジなのか、ネガなのか・・・。

●光は重力で曲がる

もう一つ、彼の作品を面白くしている要素をアインシュタイン風に言えば

光(Ray)は、重力G(gravity)で曲がる

ということ。彼にとっての重力GはGirl friendなのだけど。

1914~19  Adon Lacroix(詩人)と結婚
1921~29 Kiki(モデル・歌手) 
1929~32 Lee Miller(元モデル・マン・レイの助手)
1946~   Juliet Brownerと結婚

キキ以降は、しょっちゅう作品に登場する。
黒と白はKiki。
唇や目のメトロノームはLee Miller。
今回の展示でAdon Lacroixの写真はなかったけど、みな美女ばかり。
彼女達をモチーフにしたマン・レイの作品は情に満ちている。
彼女たちの重力の支配下での創造のように思え、人間臭いのが愛らしい。



終生彼が目指したのは画家としての成功だった・・・らしい。
苦悩も見えるでも、かなり好き勝手に楽しんでいる様子も見える。
今で言えばアート・ディレクターのような仕事も多い。
芸術の中にアウラを求めつつも、あっさりとポップもやり遂げる
地に足がつかないのか、つけようとしないのか

とらえどころのないWan Ray (弱々しい光)

それがMan Ray。

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2010年7月29日 (木)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その3

● 属性と自分らしさ

人が求める属性と社会が与える属性にはズレがある。でもいつしかそれを
基準に人は属性を求めていく。

僕は以前ハッとしたことがある。
自分を見失って、悩んで、息詰まっていた時ある人にこう言われた。
「自分の好きなようにやってみなさい」と。

そのあと、しばらく自分がやりたいように行動してみた。でも何か晴れな
かったし、満たされるものがなかった。
好きなようにやっているのに、開かれないし、自由にも思えない。
その時立ち止って考えた、そしてわかったのは「自分の好きなようにやっ
てみる」という中で、自分というものが殆んどが実は「世間」だったとい
うことだった。
この得体の知れない、大きく朦朧とした薄光りする「世間」というものを
自分から除去する作業はしばらくかかった。捨てるべきとわかったことで
もあっさり手放せない。
会社員、サラリーマンということに嫌気が差しながらも、実はそうである
ことに安心している自分がいたことにも気付かされた。
やりたいことを考える時に、「収入」ということをかなり重要視してい
ることにも気付いた。
自分が素敵だと思えるというより、社会的に素敵と思われていることを追いかけていることに気付いた。

このセケンという境界の重ね塗りの畦道には、属性というポイントが点在して、人はそこにおいてあるリボンを一つ一つ集めていく。
でもそんな集めねばと思って集めた属性は、いつまで自分の属性であり続けるのだろう。自分が求めた属性は、脆い、それが世間の産物であれ尚更脆い。

属性に含まれない、或いは属性とされないといったもののに本当のみるべきものがあるのではないか。
いきなり飛びついて得たような属性はあまりに脆弱で・・・そう思う。
人が求めてるのは、不安をきっちり通過したものであったり、日常からであったり、わかりやすく言えば、
私は○○でない、△△が苦手だ、自信がない、不安だ・・・こういったもの積み重ねの方に、人々が得たい本当のものがあるのではないかと。

あえて・・・言ってみました。

佐藤雅彦さんは、今回の展示は楽しむんじゃなくて、大きな疑問を抱えな
がら家路について欲しい、と話していました。
“これも自分と認めざるをえない”この言葉に隠されたものは何か、ぜひ考えてみてください。

(終わり)

※ 体験型の展示が多いので、人が少なそうな時に行くのをおススメします。

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2010年7月28日 (水)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その2

● 属性を求める人、属性に当てはめる社会・・・属、族、俗

人は心身の居場所を求める・・・属性を多く持てば持つほど、わかればわ
かるほど安心する。
自分のことを理解できないことは不安で仕方がない。
人はこうした属性を持つことを望む。
自分を知り、他人との違いを知りたがる。

男/女であること
結婚していること
サラリーマンであること
仕事が○○であること
肩書きをもつこと
年収が△△万以上であること
趣味が○○であること
個性があること
夢があること
目標があること
**座
血液型は#型
車は△△に乗っている
お洒落な○○を持っている
・・・

一方、社会は人々を属性で分類したがってる。
今回の展示では、入場後すぐに身体を計測する(数値は公開されな
いのでご安心を・・・)。我われ鑑賞者は最新の機器によってデータ化された身
体や動作の特徴
を属性として分類される。ここでの身体データはインスタレーションで使
われるので、計測された方が展示を楽しめるわけで・・・。

今、googleは検索ワードから人の興味を属性として分析して、ネッ
ト画面にしょっちゅう出てくるgoogle adにいかされている。
googleが社会の塊がその瞬間(とき)に何に関心をもっている
かを分析しているけれどしtwitterはつぶやきのタイムラインから
個人の思考の偏りや考えの変化を分析している。映画好きがtwitter
でどんな状況で映画を見ているのかつぶやく、どんなジャンルの映画で、
何処で、何を飲みながら、何を食べながら、誰と・・・それが昼なら、夜
なら、夏なら、冬ならと・・・。

展示の中に鑑賞者が何を見ているかわかるというインスタレーションが
あった。何を見ているかということは、何に興味があるとか、何を考えているかと
か、といった思考をスキャニングするのに近いと思う。
そのうち、動作や表情からだけでも何を考えているかがデータ化されるよ
うなことが起きてしまうだろう。
属性を明らかにすることで、人の思考をお金に結びつけることにな
る・・・だから何処までも研究は続く、たぶん行き過ぎるところまで。

その昔、経済学でお金に換算できないものが3つあるとされてい
た。
それは「労働(≒人)」、「土地」、「貨幣」
今は当たり前のように土地は売買され、貨幣にも価格がつけられ取引され
ている。
マルクスは「労働」つまり人という価値を基準に経済を論じた。今となっ
ては正社員という雇用形態は減り続け、企業側が責任を持たずに融通のき
く派遣やバイトばかりが増えていく。これで労働者の身体は確実に不安定
になった。さあ、この思考の属性を分析するということはどうなるのだろ
う、人は消費者として労働者として益々ばらばらで不安定で、市場にとっ
ては益々融通のきく存在となっていく・・・いつまで続くのか、何処で均
衡してくれるのか。

(続)その3へ

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2010年7月27日 (火)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その1

21_21 design sightで始まった佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と
認めざるをえない”展」ならびにそのオープニングトークに行ってきまし
た。

● 人は意外と自分に「無頓着」?

佐藤さんの話は「属性」をテーマに行われました。
いくつか興味深いことはあったのですが、その中の一番心の残ったことを
書きます。
それは、『人は意外と自分に「無頓着」である』ということ

魚や四足歩行の動物は、自分が存在することは知っているけど、自分の姿
を知らない。自分の群れ他の生き物を見ることが、己へとつながってい
く。
動詞で考えると、自動詞しかない・・・「歩く、泳ぐ、食べる」。

一方、人間やチンパンジーは二足歩行で手を自由に操る。視界に入る自分
の手の動きを通して自己の姿や存在を認識する。
動詞で考えると、他動詞もありえる・・・「食べさせる、殴る、運ぶ」。

鏡を鏡と認識できるのも手を操れる人間やチンパンジーなんだそう
で・・・
この展示のインスタレーションで自分の写らない鏡がある。
でもその状況を読み取りながらも、その鏡の前に立っても違和感をあまり
感じない。

これは魚や四足歩行の哺乳類からのDNAなのであろうか。
人は、自分の姿を見ることより、人を見て自分の存在を確認しているということなのかもしれない。
つまりは、自分の存在を確認するきっかけは常に他者にあるということな
のだろうか。
たぶん他者を見て、自分との違いを認識して初めて自分の存在を知
る、アイデンティティを認識しているのかもしれない。

(続)その2へ

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