経済・政治・国際

2011年11月19日 (土)

あいまいさ、すべてはあいまいなのさ

ふだん当たり前に口にしている単語がなぜか出てこない時がありませんか?その言葉の存在を知っているのにもかかわらず。だから、口から出ないもどかしさを強く感じますよね。

僕の父は十数年前にクモ膜下出血で倒れ、幸い今は元気なのですが、若干障害が残り、話せる単語が減りました。話している様子をみると、父もその単語が存在することはわかるのに単語が口に出せないようなのです。

けれど、なぜわからない言葉の存在に気付けるのか。おそらく、言葉は他の言葉によって定義されるということと関係があるかもしれないと思います。言葉、色、価値、僕らの存在、結局はまわりとの関係で輪郭ができてくるわけです。仏教なら空っていいますよね。

っていうとどうでしょう。定義があるものなんてないし、自ら正しいと証明できるものなんてない。でも、なんとなしに定義されるものがあり、時が刻み少しづつ積み上げたものが私であったり、あなたであったりする。

ならば、曖昧であるというのはそんなにも悪いことなのでしょうか。神は対立を強要されたのでしょうか。

比較宗教学者の町田宗鳳さんは十代の半ばから30の半ばまで臨済宗の僧として修行に励まれていました。無一文同然でアメリカに渡り、仏教を外から研究した方です。
町田さんは先日の連塾でこう話されました。二項対立の国で仏教のもつい曖昧さを、どう説明するかについて。「曖昧な部分を論理的に説明しようとはしません。曖昧さについて論理的に説明するのです。」と。
曖昧さは、曖昧さでいいんです。日本の曖昧さは対立をつなげ、一体化させることができるわけです。
対立がつくった世界は壁にぶち当たっています。ならばどうするか。日本の考え方にヒントがあるのではないでしょうか。

人は論理に頼れば頼るほど、絶滅の時を早めると思うのです。というと、いま不合理と言われてるもの、はたまた異人変人と言われるような人々が生き延びたりするではないですか、きっと。

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2011年4月21日 (木)

身近な政治。。。

最近気づいたことがあります。
今週末、全国的に市町村議会議員選挙が行われるようです。駅前で盛んに候補者が演説をしたり、支援者がビラを配っているわけですが、どうも共産党の方が多いのに気がつきました。

そこで全国の市町村議会の議席数を確認したところ無所属が最多数なのですが政党では共産党が一番なのです。
国会では今や少数政党の共産党ですが、市町村議会ではそれなりの議席数をもつのです。じゃあ当道府県議会ではどうかといえば、国会と同じく少数政党です。

たしかに共産党の政策は一般庶民の味方といえるようなものが多いですが、単にそれが支持されているいうことではないと思うのです。市町村議会議員選挙は投票率が低い、すると常日頃から政治への関心が高い人の占める割合が多くなるということなのでしょう。そして共産党の支持者は身近な政治にも関心が高く、それが議席数に反映されているのだと思います。

日本人は国政選挙は話題性もあり行かねばならないという人がかなりいます。が、市町村議会議員となると全然わからないからと投票へ行かない方も多いのではないでしょうか。僕もそうですが、国政選挙は国を決めるから投票せねばという使命感のようなものを感じ、市政選挙はちょっとした何が変わる?と思ってしまいがち。でも本来自分の住む場所に関わる選挙こそ行ってしかりだし、1票がもつ大きさは身近な選挙のが強いはず。

これからはローカルの政治が強くなってそれが束になって新たな日本を作る。そういう形がベストなのではないかと思います。

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2011年4月16日 (土)

なぜ日本はこんな国になったのだろう

今回の大地震は天災であって、どうしても避けられない出来事であったと思う。でも福島原発の件については明らかに人災と思わざるをえない。
原発が日本にできるに至ったのは、まずアメリカからのプッシュがあって、読売グループが大宣伝をし、その後は国も東京電力も大手マスコミが安心でクリーンと大合唱した。最近はオール電化とか電気自動車といったものが身近になりつつもあり、新たな時代は電気がつくるとばかり明らかに他のエネルギー(ガスや石油など)より先をいくイメージだった。
その背後には原発があって、疑いもせずに受け入れてきた僕らにも責任は大いにある。正直に言えば日本の電気代は世界一高いことも知らなかったし、むしろ原子力で安いのかと思っていた(実際は、むしろ原子力のせいで高くなっている)。のに、ことさえ良く知らなかった。そして電力を使いたい放題してきたこと、東京の夜景が綺麗だなと思っていたことも否めない。

はっきりいって、この状況は日本が戦争をしてしまった反省をいまだ教訓にできていない、ということになってしまうと思う。そうしているうちに、こんな事態になってしまった。原発のことは、テレビや新聞はあてに出来ないけれど、ネットを多用することと自分のリテラシーである程度精査しながら、事実を探り、受け入れなければならない苦難や危険を探ることはできる。でもそんなことではない不安というものが心中をうごめいている。それはこの日本国の権力階層のダメさはなんなんだということ。一部の人を除き、首相をはじめとし政治家、官僚、マスコミ、一部の企業は本当に日本を助けたいのか?と思ってしまう。たぶん自分の任期にこんなことが起きてツイてないなくらいにしか思っていないのだと思う。

だから日本人の思考/志向について探りたくなってっきた。この難を乗り越えたところでそのことを理解し、少しづつでも改めて進まねばまた同じことが起きてしまう。
これまで日本の歴史をみたり文化や芸術をみたりして日本の可能性を探ろうとしてきた。まだまだかじりる程度しか理解できてはいないけど、知れば知るほど日本を誇らしく思えてくる。けれどその作業は果てもないもので、そう簡単に日本というものを知ることはできない、故に可能性を見出す以上のスピードで心のどこかに焦りや不安のようなものが蓄積されてくる。今回の震災やその後の状況でそれはいっきに大きな存在となってしまった。
そしてとうとう始めてしまったのが、日本の何が悪いのかと考えること。もう楽観的に可能性ばかりを模索していられない自分がいた。まず何が悪いのか、なぜ悪くなったのか、何時悪くなったのか、それを知ろうと歴史を遡ったりしている。

粗い描写でしかないけれど今はこんなことだと思っている実在する。江戸時代の後半などは、とても幸せそうだったのはわかる。するとこの今の元凶は何か。 大きな転機は二度あったと思う。それは明治維新と終戦。まず戦前戦後を眺めてみると、ハッキリ言って今の日本をみているようだった。論理的思考もないし、役割や責任も明確でない、逆らえない空気のようなものが悪い方へ悪い方へと押し流していった。もう既に良くない日本はあったようだ。
だから、明治になったときに何か起きたのだと思う。いや、正確には黒船でペルリがきた頃かもしれない。日本は島国ということもあって国という意識がない。そもそも国というのは、集団が巨大化してできるものではなく、周囲に勢力ができることで、自らの集団を護ろうというところから生まれるものだからだ。そんな日本に攘夷という考えができたときに、坂本龍馬たちが国をつくらねばとなり、そして見事に明治政府が誕生したわけだ。そこに西洋のシステムでもって日本国を構築しようとしたものの、その基盤は旧来からの日本であって、どうもおかしなシステムができてしまった。

古くから封建社会でその土地土地で統治することをしてきた日本を中央集権化することに無理があっただろうし、そもそもキリスト教あっての民主主義、資本主義のシステムを無理やりそれまでの日本に組み入れたあたりも大きな原因なのだろう。西欧では精神のエトスとしてキリスト教があり神がありキリストがいた。日本はそれを真似て国家神道をつくった。キリストの代わりが現人神天皇になった。
でも民主主義を体裁を整えるために天皇はかたちだけの頂点で、政治に口を出せないことになっている。でも天皇のために尽くすのであるから、政府は国民の意を汲めないというおかしな政治が誕生する。
西欧では政教分離だけど、その根本にキリスト教と絶対の中心たる神がいる。一方日本は、突貫工事でその求心力を最大限にしようとしたもんだから国が推奨するおかしな宗教が国家神道(しかも国家神道は宗教でないので政教分離できていることにしていた)があって、実在する人間が神がいてと不可思議な構造になっている。そして、戦後はそれがアメリカをオカミにしながらというのが粗描写なんじゃないかと思う。もっともっと勉強しなきゃなと思っているけど。

こんなあら探しをしている。。。でも皆が頑張ってきっと乗り越えるって思っている。信じている。

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2011年2月26日 (土)

【book martin 41928】 007『世界を変えるデザイン』

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現在の社会はまさしく「暴走する資本主義」であって、誰もがそこに疑問を抱きながらもなかなかそこから離脱することもできないでいる。その原因の一つは金融にあり、もう一つは企業とりわけ大企業、グローバル企業といわれるものの利益至上主義にあるように思う。だから個人的には、大企業というものを毛嫌いしている感があるのは否めない。でも大量生産や工業というものがバランス良く機能していた時代もあったわけだ。この先、今の行き詰まりを超えて次のステップの資本主義へ移行していくと思うけど、その中で企業も何かしらの新たな基準で役目を果たしていくはず。ただその時に、電気自動車のような、あくまで僕らが今いるような先進国(この言い方さえ最近気に入らないのだけれど)にとってよいものばかりではどうしようもない。
ポランニーや柄谷行人がいうような互酬と再配分が根底にある社会へと発展していかなければ、明るい未来はないと思う。これまでは貧困に喘いでいる国に対して、資金的な援助が行われてきた
再配分というのはお金だけではない。この本でいくつもの例が示されているのは、デザインというものの力で、そのお金での援助の何倍もの価値のある実績をもたらしたものばかりだ。
たしかにそこにはボランティアや利益を追求しない形で、多くの人が携わっているということもあるけれど

この本は2007年に「Design for the other 90%(残りの90%のためのデザイン)」展にあわせてつくられたものだ。日本でも「世界を変えるデザイン展」として昨年2010年5月に六本木で開催されていた。この90%という数字は何かというと、世界の95%のデザイナー達はこれまで先進国の10%の富裕な人々に向けてしかデザインしてこなかったということを指している。Design for the otherという活動は現在も進行中のようです。
ちなみにBOPビジネスという言葉も、初めて知りました。BOPとは「Base of the Pyramid」(ピラミッドの底辺)にあたる貧困層のことで、BOPビジネスとはそういった層を相手にしたビジネスのこと。

水があること、ガスがあること、明かりがあること、という生きていく上でかなり基本的な水準のことがないといったいどのような生活になるか日本で楽に暮らす僕らには想像を絶する。僕らが生きていけることが、気付きもしない沢山の恵みの重層の上で成立しているのだと・・・。
例えば水がないこと、水を遠地まで汲みに行かなければいけないことで、多くの時間が失われる。大人が桶を頭の上にのせて運んでいるとしよう。まずそれだけで仕事に行けない。お金を得る機会から、疎外されてしまう。親が十分に仕事ができなければ、子は仕事を手伝う為に学校へは行けず、教育も受けられない。
ガスがないところでは薪や草、紙、乾燥した動物の糞を燃料として使う。実はこれらがものすごく体に悪い。1歳から5歳までの子供の死因第一位は、呼吸器の疾患でその原因はこれら質の悪い燃料から発生する煙に含まれる微粒子によるものなのだ。

ポール・ポラック(かつて投資で稼ぎ、今は貧困層へのサポートをしている)は貧困層へのデザインで需要な点として、「手頃な価格、小型化、拡張性」をあげている。特に価格に関しては、価格方がいいとかではなく、手頃な価格でなければ買えないということ。そして価格を安くするための方法として以下のようなポイントがある。

・道具に厳しい減量を課す・・・最高の性能が導けなくても8割の性能に落とすことで、材料が大幅に減量できる場合がある。
・余剰性は余計なものと考える
・歴史にさかのぼるデザインで前進する・・・最新版は今の技術で最適なデザインとなっているのでかつてのデザインを振り返ってみる。
・最新素材で古い素材をアップデートする
従来からあるものを妥当な価格の範囲で性能が向上する新素材に変えることができないか検討する
・継続的に拡張できるものにする
そしてこれが大切で、少しずつ買い足していくことができるということ。例えば畑の灌漑設備の場合、はじめに1エーカーだけに設置し、利益が出たら新たにもう1エーカー追加するといったことが必要になる。

貧困層の自立を目的とした商品を開発するキックスタート(http://www.kickstart.org)は、こういった貧困層をサポートするプロダクトは無料ではいけないと言っている。これは生きることに尊厳を見いだしてもらいたいからだそううだ。
・貧困に対する持続可能な解決策を創り出す為・・・。サプライチェーン(商品供給の流通経路)をもち、そこに関わる者たちが利害関係者となることで、持続可能な事業となる。これがないと現実味のないものになってしまう。
・費用効率を高くする・・・寄付金などだけで無償で配布すると、商品のバージョンアップなどが行えない。有償とすることで、よりよいものへとしていくことができる。地域のある一人が購入し、それを見て周りの人へと拡がていくようになる。
・公正の問題・・・無料で配布するのであると、資金的に配布できる範囲が限定されてしまう。
・個人所有・・・誰でも自分のものは大切に使う。

キックスタートではこいった商品を「できる限り先進的な工場に生産を集中させることで、耐用年数の長い高品質な製品を低価格で生産できる」としている。人が生きるために、高品質な物の大量生産することであったり、それらが流通する仕組みが機能していくのはとても重要と感じる。
生きる為の消費と関わる時、分業や大量生産はとても大きな意味をもつ。お金だけでなく、デザインや知識、知恵という形での再配分というのもあるということ。環境問題、人口問題、貧困問題、金融の暴走・・・たくさんの問題を抱えて先行きは不安定な世界ではあるけれど。
これまでの需要と供給はあまりに一方通行だったのかもしれない。それによって光と影のコントラストがハッキリし過ぎてしまった。情報がインタラクティブになったと言われるように、これからは物の生産でも双方向でなければならない。この本には、この先を示唆する物が含まれているような気がする。上に挙げた、価格を安くするための方法や有償でサポートする理由のリストには、少し具体的なヒントではないかと・・・。

たくさんの事例が掲載されています。 一部を紹介するとこんな感じです。

・100ドルのラップトップ・コンピュータ
100pc
・転がして水を運ぶ「Qドラム」

Qdrum
・さとうきびの練炭・・・
地元で取れるものを利用して、煙が少なく、簡単な設備で量産できる、廃棄するものを使うので薪のための伐採も減る

・ソーラ充電の補聴器・・・
従来の補聴器は電池式で、電池は高価、しかも遠隔地まで買いに行かねばならなかった。

・足踏みのポンプ・・・
畑に水を送り込むポンプ
Moneymakerpump

・住居用土ブロック製造機

・灌漑設備・・・
安価で拡張しやすいように出来ている。初期設置で利益が出たら、拡張し、また利益が出たら拡張し、と収入の循環が生まれやすい。

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2011年2月22日 (火)

大量生産や分業や

空腹の時は、おにぎりにぎりだってご馳走だ。喉がカラカラな飢餓状態にあれば、生米をかじって空腹を満たすだって幸せだろう。

分業を始めた頃、工業を始めた頃につくっていたものは、人が生きる為に貢献する度合いが多かったのだと思う。安く大量につくれることで、購入できるものも増えたであろう。また雇用という面でも、お大きな役割を果たしたのだと思う。そして安定して暮らせる人も増えた。

大量生産で今世界がどのようになっているかは、良い部分も悪い部分も各々が肌で感じ、考えることがあるのではないか。世の中、良いことだけのことはない、だいたい諸刃の剣だ。

ただ、繰り返せば工業や分業により、生きる為に有用なものを安くつくりだすことできる、ということの可能性はある。今更なことだけれど。。。

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2011年2月20日 (日)

【book martin 41928】 006-03カール・ポランニー『経済の文明史』 互酬について

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互酬という言葉はあまり馴染みがなかった、というより知らなかった。古代の社会や歴史の授業でクニの始まりをこんなふうに教わっていないだろうか。狩猟社会から農耕社会になって、収穫が安定し、貯蔵ができるようになったときリーダー的な者が現れ、仕切るようになり、それが豪族となっていった。どうだろう、こんなことがあたりまえだと思っていないだろうか。少なくとも僕はこういう認識だった。

簡単にいえば、互酬というのは与えて返してもらうというのがひとまとまりになっているような、相互扶助の関係のこと。ギブ・アンド・テイクといえばどこかに損得が含まれていたり、プレゼントとは色々なパターンがあるけれど、基本的に贈るだけで、バレンタインとホワイトデーのように贈り合いもあるけれど、返してもらうということを必ずしも前提にしていない。やっぱり現代に生きる僕には経済的な合理性や損得のような考え方が染み付いていて、共同体としての絆の交換というのがいまいちシックリ飲み込めなかった。ものの交換だと想像力に限界があってよくわからなかったけど、人の交換で考えたところでなるほどと思った。

互酬について納得できたのは柄谷行人「世界共和国へ」を読んだ時だった。今も残っている社会のタブー近親相姦はなぜ禁止されるようになったかという話が出ていた。巷では血が濃くなるとか遺伝子的な理由がよく挙げられるけれど、遺伝子などの科学的知識が発見されるより大昔から禁止されていることが今までどうも腑に落ちなかった。
「世界共和国へ」に文化人類学者で構造主義の祖と言われるレヴィ・ストロースによるなぜ近親相姦がタブーとなったかという話が出ていた。人は家族に属し家族は共同体に属していた。共同体で部落を形成し生活をしている。そこでは互酬の関係がある。つまり絆のある交換のようなものだ。自分が獲ってきた獲物は共同体の皆で分けて食べるのが当たり前、その代わり誰かが獲ってきたものを分けてもらうこともできた。こうやって生きる為のリスクを減らしす。そして、さらに生きる為のリスクを減らすには、大きな共同体との関係をもつことが必要になる。その為に女性は嫁に出された。そうすることで義父、義兄弟といった義理の家族が増える。それが共同体との関係を密にすることになるからだ。逆に言えば、近親に嫁いでしまうと、狭い範囲での関係は強くなるものの、共同体との関係は弱くなってしまう。生きるための方法、それが近親相姦がタブーとなった理由なのだ。

ポランニーは「アリストテレスによる経済の発見」の中で、ギリシャにはすでにかなり発達した経済システムがあった(最近の研究ではどのような通説になっているかはわからないけど)という通説に疑問を呈している。

'人間は本来自給自足的なものである、というのがアリストテレスの描く像であった。したがって、人間の経済は人間の欲望や必要の無制限性―今日の言葉で言えば、稀少性の事実―から派生するものではなかったのである。…中略…アリストテレスの考えは、商業的な交易は金もうけという不自然な、そして言うまでもなく、限界を知らない衝動から発生するものであり、価格は正義の規則に従うべきである(その実際の方式はかなり曖昧であるが)'

ポランニーは互酬時代(少し再配分も含まれているけど)の経済的な特徴について8点あげている。そもそも「経済が非経済的な制度に埋め込まれているような状態では、経済過程を見いだすことが困難」ということを知り、いまの経済環境を人類史上で相対化してみないといけないと思う。大雑把に書き出してみると以下のようになる。

1.「人間の生活の物理的な場を、経済のなんらか表見的な部分に関連づけようとしても、それができない場合、その人間の住みかーー彼の家庭とそれに接する環境ーーは経済的な連関をほとんどもたない。」

このあと女性人類学者マーガレット・ミードのニューギニアのアラペシュ族の話を引用している。狩猟民族のような生活をおくってるのであるけれども、そこには損得の観念のない現代社会では全く想像できないような話が書かれている。誰が獲ってきたから誰が食べるという考え方が存在しない。むしろ自分で殺してきた肉を自分で食べるという事が道徳的欠陥者とされる。他にも、家の部材は誰か他の人の家で不要となったものであったりする。だから、不要となった部材(たとえば垂木が長すぎるとか)を捨てることもない。

2.「数量性の欠落」についてはマリノフスキーという人類学者を引き合いに出して説明している。
a.「ひとつに無償の贈与というものがある。贈与という観念には返礼というものが含まれていた。なので丸損したと思うことはない。」
b.贈物は経済的に等価なやりとりがなされるのだけど、交易ということからみると意味をなさない交易がある。同じものを行って来いで戻ってきたり、まわり巡って戻ってきたり。何が目的かといえば相互の関係を緊密にすることであったりする。
c.もののやりとりをするときに不漁や凶作である場合は、量を減らすことができたりして、双方が充足しているということが原則として考えられている。また、中古品は人が使ったということが価値になるため、新品の方が不利と考えられる。
d.取引には社会的な関係が作用するので、不平等な取引が普通になる。

3.「所有権という概念がない」
同じものを何人もで共有する。一人が権利を主張することはない。

4.「経済的取引そのものは、血縁的共同体からはなかなか生じてこない」という書き方だとピンと来ないけれど、そもそも求婚、婚約、婚姻、養子縁組、奴隷解放といった事にともなって財の移動があり、それが取引するということの始まりになる。つまり「その人の地位を社会の文脈の中に確立する上で取引が発揮する重要性からみれば、二義的なものであった」のだ。まずは、土地、家畜、奴隷のように地位を示すような財が、地位とセットで動いたので経済取引といった取引を目的としたものは存在しなかった。

5.「多くの古代社会においてその富を構成するのは、財ではなくてサービスである。奴隷や召使や家来がそのサービスを提供する。…中略…物質的成分が非物質的成分よりも増えるにつれて、政治的手段による統制が後退して、いわゆる経済的統制に道を譲る。」

6.アリストテレスの哲学の中での幸福な人生の目的3つとは、1つ目が名誉と威信・・・位階と順位、2つ目は生命と身体の安全・・・敵や裏切りからの安全、奴隷の反乱からの安全、強者の圧制からの安全、3つ目が富・・・家宝や財宝をもつことの幸福。
つまり「貧困は劣った身分を意味する」もので、「低所得という純経済的な事実は視野に入っていない」ということ。農民などが経済的な観点から貧しいとされず、貧しいとされるのは「他人の命ずるままに働く」ような身分のことをいう。

7.「善(アガタ)こそ人生の最高の目的であり、もっとも望ましいものであり、かつもっとも稀なものである。」「善(アガタ)の希少性は、身分にも、特権にも、財宝にも固有の性質である。つまり、多くの人々に得ることができるようなものなら、善(アガタ)は善でなくなるのである。…中略…稀有の目的は、経済の次元のものではなく、この希少性は非経済的な次元から生じるものなのである。」

8.「人間生活のぎりぎりの基本的条件である、人間集団の自給自足性は、「必需品」供給が物的に可能なときに確保される。ここでいう物とは、生命を支えるもの、貯えうるもの――すなわち、長持ちするもの――のことである。…中略…飢餓や戦争の時、市民たち、家族の成員たちががそれらに頼ることができなければならない。」
とうもろこし、ぶどう酒、羊毛など蓄えられるものについては蓄えて、いざとなれば配給した。ただ、貯めるといっても、ある程度というのがあって、過剰に貯めるようなことはなかった。その昔は、欲望が生み出す余剰というようなものとの隔たりがあったということになる。

以上をかい摘んで見ていると、自分たちが当たり前のように経済的な価値に結びつけていることが、当たり前でない時代もあったということがわかってくる。生きるために家族や共同体をなし、自給自足性、公正のあった社会には現在の経済という合理性は全くなかった。ポランニーが非経済的というものが残っていた時代は、人間が生物である以上、できるだけ多くのものが生き延びるということが合理的であった。
ただ、こういったことが現在の社会には全くないのかといえば、かなりメタな部分で残っている。それに、この互酬が共同体を経て国家というところまで辿り着くのだけど、それはまた今度。あと、ポランニーは貨幣や市場のことも経済人類学から説明しているので、気が変わらなければ書きたいなと。

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2011年2月13日 (日)

『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー監督)

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チュニジアで大規模なデモが起きて23年間独裁政治を続けたベン・アリ大統領は退陣し、国外へ逃亡。そのすぐあとエジプトでもデモが起きム30年間独裁政治を続けたバラク大統領は往生際が悪かったものの結局退陣することになった。
エジプト国民の鬱憤を吹き出させてしまったのは、ムバラク大統領が国内のネット網を遮断したことにあると言われている。なぜ遮断したかといえば、自らの醜態がどんどん漏れでていくのを抑えられなくなったからだ。携帯のカメラで写真やビデオ撮影してネットにアップして、twitterやfacebookで公開する、するとそれに共感した友人やフォローする者どうしがそれをどんどん拡げていく。昨年もウイグルやイランで暴動が起きたように、ネットによって政府の不条理な行いを表沙汰にすることからデモが起きるようなことが、新しい市民革命のかたちとなってきたように思う。

そしてこの映画『ソーシャル・ネットワーク』はfacebookの創業者マーク・ザッカーバーグを主人公とした、facebookの誕生から登録者数100万を超えるくらいまでの話になっています。
とてもスピード感と高揚感、それはどんどん桁の上がっていく登録者数、マネーや株、早口の登場人物、寮から住宅そして大きなオフィスへ、従業員の数や群がる女たち・・・・。

facebookをつくる前にザッカーバーグはハーバードの女学生の美人投票をするフェイスマッシュというものをっている。これはハーバードバードのサーバーにハッキングして、女学生の学生証の写真を抽出し、2枚の女学生の写真を並列させ、どちらが可愛いかとアクセス者にに選ばせる。それによって学内の女学生の美女ランキングを作るというもので、この件でザッカーバーグはハーバードから処分をうける。このフェイスマッシュは女性にふられたことから生まれたのだけど、この映画には終始妬み、復讐の影が絡みつく。そしてその創造の現場とかけ離れたように広大に広がるネットのつながり。

facebookにはナップスターのショーン・パーカーが関わっている。この映画でも、出てくるのだけど(どうやら事実と異なるらしいものの)
そこで彼はこう話す。
音楽業界は頭の硬いヤツらばかりだ。別の形で復讐はしたよ。どうだい、CDは売れなくなっちまったろ?

オタクで数人しか友達のいないような天才プログラマーが、人とつながる為のサイトを作った。人とのつながりをもたらすことは知識のつながりをもたらすことのように、情報の世界をつなぐという括りでは同じかもしれない。かたやtwitterは情報をつなげることの方に重心があるように思える。一方のfacebookは当初から人と人がつながるということを強く意識し、人間の実体感をもたせる工夫をしている。その思想は実名で登録することや顔写真を掲載することにはっきりと現れている。

内燃機関の発達や電気が生まれてそれが生活を変えた。そしてITの発展で情報のあり方が変わった。マスが大きな力をもったメディアの構造が変わり始めている。情報以外の技術も発達していくのでしょう。僕は情報以外の分野でもマスでしかできなかったことが数千人とか数百人、数十人単位でできるようになるんじゃないかと思う。地域や家族や個人の単位、そして新たなつながりがもたらす集団、こういったものが新たな共同体となり、社会の構造がパーソナルな集合体として再編成されていくんじゃないかと考えています。
それによって発展形としての封建社会や民族文化のようなものになるかもしれないし、統一的な世界というようなものになるかもしれない。少なくとも現在のベクトルとしてますというあり方、帝国というあり方のようなものには限界点を過ぎていて、転換期に差し掛かっているということのように思います。twitterやfacebookが生み出す人のつながりと力の波は転換期であることを実証しているように思えるのです。

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2011年2月11日 (金)

【book martin 41928】 006-02カール・ポランニー『経済の文明史』 経済の実在的と形式的

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ポランニー『経済の文明史』を自分なりにどうまとめてみようか迷ったのだけど、キーワードを挙げてそれについて書いていくというのがいいかなと思う。

経済・・・実在的と形式的

ポランニーは、「経済」には実在的な意味と形式的な意味があるという。それらは融合されてしまって意識をされずに使われており、悪い影響を与えていると。簡単にいえば「実在の経済」とは生きるための交換であり、「形式的な意味での経済」とは「経済的」や「経済化」といった使われ方をする経済だ。

現代に生きる私達は経済というと利潤を求める交換であったり、節約であったり、無駄にお金を使わないだとか、お金の損得のようなところに経済という言葉を使っている。マイケル・サンデルが批判した功利主義や合理的というものの多くがこの「経済的」な思考に基づいている。でもこういった考え方はアダム・スミスにはじまる近代経済以降に登場したものであって、人類史上みると特別なものでしかない。

生きるための経済があったということは次のキーワード「互酬」で説明するけれど、経済の発端はとにかく生存するためにあったということを忘れるべきではないと思う。経済という言葉を使うとき、市場経済をさすことが多いと思う。でも、人類史でみれば非市場経済というものが長きに渡って存在し、生きるための交換が行われていた。獲物を得たらそれは誰のものとするでもなく、皆で分けて食べるのが当たり前だった社会があって、実はそれに基づいた社会が近代に入る前までにかなりの比重を占めていたということ。

一方の形式的な経済についてはこんな書き方をしている。「手段の不足性に由来する選択によって規定されるもの」だとか、「節約行為の連続、すなわち稀少性の状況によって引き起こされる選択の連続」だとか。ウ~ン、分かりにくい言い回し。形式的経済を合理的に考えた場合、選択するということは、そもそも手段が不足している状態を示す。喉が渇いたときは、一杯の水を飲む、病気で動けない人には、誰かが看護する、これと同じこと。ただもう少し補足すれば、不足とは必要に対しての不足でもあるけれど、不足と感じれば不足していることになる。雑誌をみたらかわいい服があって、この冬はこの服がないと取り残されたような気分になる、というのならそれも不足ということ。ポランニーの言葉で言えば「不足のないところでの選択があるように、選択のないところでの手段の不足も存在することが容易に理解できる」というふうになる。そして、情報や刺激が無限に溢れる社会では「手段の豊富さが、選択の困難さを減らすどころか、増加させている」わけだ。

人間の経済というのは「経済的な制度と非経済的な制度に埋め込まれ、編みこまれている」という。僕らは経済をずいぶんと狭い意味でしか使っていなかったように思う。
最近、大森区と蒲田区が合併して、一文字ずつとって大田区ができたということを知った。ずいぶん味気ないミックスをしたなと思った。たしかに森蒲区とは言い難いけれど、汎用性の高い方の文字同士を組み合わせることもないんじゃないかなと。。。経済という文字もずいぶんと冷淡に感じるし、年々そのイメージを増しているようにも思えるけれど、元はもっと血の通ったものだったんだなぁ。。。

(続く)

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2011年1月27日 (木)

【book martin 41928】 006-01カール・ポランニー『経済の文明史』

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経済というものは、どんな化物なんだと思っているのは僕だけではないと思う。この化物のことを皆が知りたいと思っている。経済というものは生活の根幹にあるもので、あらゆるものが経済的な仕組みによって成っている。それは生きることに関わる物ような部分から、社会制度の根幹にもなり、はては仮想空間のようなところまでも。経済の問題は簡単に答えの見つかるものではないのだけど、それでも少しづつ考えていきたいと思っている。

ポランニーの基本的な考えは、経済は社会の中に埋もれたものだということなのだけど、やはりそうだと思う。いや、正確には思いたい。ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で世界を見てみろ、民主主義の国はみんな経済的に豊かじゃないか、でも逆はないだろみたいなことを書いていたと思う。けど、はて?と思いながらも読んだころの僕は上手く相対化できなかった。経済というものを少しづつつまんでいると、経済は成長し続けるという神話があまりにも大きすぎる気がする。

やっぱり経済をもっともっと引いた位置から、つまりは歴史的に俯瞰して見てみてみたくてこの本を読んだ。今の経済、もう少しはっきり言えば市場経済は人類史上どのように位置づければいいのかを知りたいと。

ポランニーは「経済は社会に埋もれたもの」だという。経済学というものだってせいぜいアダム・スミスから始まるわけだし。ちなみに『国富論』が1776年なのだから、かれこれ2世紀半も経っていない。とすれば、いまの世界って社会っていうのがそもそも人間にとって当たり前なのか否かは一度疑ってみる価値はあるんじゃないかな。仮に今が割と最適な状態であったとしても別の形態が存在していたということを知っていてもいいんじゃないかな。
なんでそんな事をいうかといえば、日本人の道徳とか価値だとかがあまりにも経済中心になってしまっているからなんだけど。

マックス・ヴェーバーがルターに始まるプロテスタンティズムの勤勉さがエトス(精神の柱となるような行動の原理のようなもの)となり資本主義を加速させたという。もちろんそこに産業革命があったこともある。日本人の場合、宮本常一さんあたりから始まって網野善彦さんがいうように日本は百姓=農業ばかりではなく、江戸時代から商業や産業が存在していて、資本主義へと発展する素養は十分にあった。でも、日本にはプロテスタンティズムのような絶対神を核とするエートスはなかった。そこで伊藤博文あたりが天皇を現人神とすることで、資本主義のエートスを日本に作った。戦後天皇は人間となりエートスはなくなり、日本国民はアノミー(宙ぶらりん)となった。

中心を欲した日本人は経済成長にかけた。そして世界第二位の経済大国となったまでは良かった。その地位からズルズルと下がりながらも、いまだに経済大国日本こそ真の姿という幻想が拭えないでいる。経済は成長し続けるという陽炎の如き仮説にしがみつく。いまでもアメリカの後を追いながら、経済の伸び代を血眼になって探す。
こないだも書いたけど、日本には日本流の良さがあっって、西欧発のキリスト教発の資本主義とまたひとつ違った経済の仕組みというものがあり得てもいいんじゃないかと思う。

アメリカは大戦中にサポートに回りながら戦火を被ることなく、金(きん)を集め、戦後はマーシャルプランでドルで援助をし世界にドルをばらまいた。これによってアメリカはドルを基軸通貨に据えることができた。そしてブレトンウッズ体制でドルは金に準拠し、安定した通貨であると宣言して、基軸通貨としての位置付けが完璧になった。もうドルは金にペッグしませんというニクソン・ショックまでアメリカは計算づくだったという話もあるけれど。
アメリカが政治でも経済でも覇権をとった頃から時が経ち、今過渡期に入っている。確かに市場経済がいくらグラついたいたものとはいえ、その外へ出ること、あるいはその次の発展的な制度へと移行することは今のところ相当飛躍した議論になるのかもしれない。ただ世界は変革の時期であって日本では天皇が変わることが一時代となるけれど、今世界史的な一つの時代が終わりつつあり、アメリカから次なる覇権への移行が始まっている、どの国かといえばそれは中国になるという説が強いけど、多極化の時代だとか無極化との説もある。


話がごちゃごちゃしてしまったけど、要は経済というものを根深いところから考えなおしてみるべきで、今は考え直すべき時であるということ。前置きだけで話が長くなってしまったので、本題は次回から。。。(つづく)


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2011年1月 2日 (日)

リベラルの変遷

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年またぎでしたことは、風呂に入ったことと。
そしてもう一つがサンデルの「これからの『正義』の話をしよう」の再読というか、もう一度いくつかの章を読み直しました。そこでそっかと思ったことがります。

P.342にこんなくだりがあります。

 

…(前略)…不平等は市民道徳をむしばむおそれがある。市場を愛してやまない保守派と、再分配に執心するリベラル派は、この損失を見過ごしている。

このリベラルという言葉の使い方が、いまいちピンとこなかったのでwikiってみたらこうありました。

「自由主義」や「リベラリズム、リベラル」という思想や用語は、時代や地域や立場などにより変化している。初期の古典的自由主義はレッセフェールを重視して政府の権力を最小化する立場が多かったが、20世紀には社会的公正を重視して社会福祉など政府の介入も必要とするニューリベラリズム(New Liberalism、社会自由主義)が普及した。アメリカ合衆国や日本では「リベラル」という用語は、この社会自由主義の意味で使われる場合が多い。この「リベラル」に対して本来の自由主義的な側面を強調する表現がリバタリアニズム(libertarianism)で、特に経済的に古典的自由主義を再評価する立場を新自由主義(ネオリベラリズム、Neoliberalism)とも呼ぶ。・・・(wikipediaより)


なるほど、リベラルという言葉にも変遷があるのですね。僕の認識では古典的自由主義があって、その後いっきにリバタリアニズムやネオリベになていました。リベラルという言葉に社会主義のニュアンスがあったことがあるのだとは知りませんでした。

リンク(wikipedia)
自由主義
社会自由主義
リバタリアニズム
新自由主義


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