デザイン

2011年11月 1日 (火)

メタボリズムの未来都市展、そして東京、ローカルな未来へ


Metabolism

メタボリズムの未来都市展へ行って、何かヒントを受け取ることはないだろう。あったとしてもそれはきっと反面教師的な何かでしかない、という思いで見に行った。

メタボリズムという運動は建築やデザインに携わった人でないとなかなか馴染みがないと思う。実際会場でも、メタボリック症候群と関連ないの?という小声がチラホラ聞こえてきた。。。やっぱりwww

会場の映像で川添登(批評家としてメタボリズム支えた)がメタボリズムという言葉が選ばれた経緯を話していた。
メタボリズムは新陳代謝という意味で、建築やデザインの生命力のようなものを示したかったのだそう。メタボリズムというと増殖のようなイメージが強いが本来それは一部でしかないとのこと。
新陳代謝がというテーマ先で、しっくりした言葉を探していたところ、和英辞典でメタボリズムが出てきたという。候補に上がった言葉には、輪廻転生、生々流転などあったそうな。
メンバーの人選について黒川紀章や菊竹清訓があまりにファンタジックな提案ばっかりするものだから、現実的な槇文彦や大高正人を入れたという話も面白い。

メタボリズムの建築は生命力がテーマになっている、といってもそれは環境との共生という考えはあまりなく、まるで巨大なロボットが年に登場するようなイメージのものが多い。メンバーたちは当時のどこまでも成長していくような都市に対してそれぞれが野心的な拡張のシステムを提案している。今の僕らが見れば、それらはまるでありえないことなのだけど当時はどの程度リアリティを感じていたのだろうか。

非建築家のヴィヴィアン佐藤さんは建築は弱いとよく言っている。六本木ヒルズ森タワーのような大きく頑強な建築も人や時代が変われば、あっさりと適応できない廃墟のようなものになってしまうのだからと。つまり単体であっても建築は弱い、それがシステムであればもっと弱いと言える。システムは全てを覆えない、いくら大きなシステムでもそれは結局内向きなものでしかなくて、拡張可能なシステムということ自体に矛盾を孕んでいる。

じゃあメタボリズムが今に何も残さなかったかといえば、そんなことはない。槇文彦の代官山ヒルサイドテラスは30年近くかけと少しづつ建築されてきた。ヒルサイドテラスの一連の建築は特にルールを設定していないながらも、統一感のある街並みをつくっている。やはり、システムのない創造の方が継続できるということなんだろう。

経済学者ハイエクは自由には、積極的自由と消極的自由があるといった。積極的自由とは、我々にとって自由とはこうだこういう社会を作るんだといった考え方。一方の消極的自由とは、社会を抑制するような権力や制度があってそこから自由になろうという考え方。ハイエクがいうのは、積極的自由はピューとぴあのようなものを作ったり、結局それを達成することで誰かが犠牲になるじゃないかということ。つまり、消極的な自由というのがあるべき自由なのではないかと言っている。
メタボリズムも積極的に未来を描いたものは長く続かないものであり、消極的に未来を示したヒルサイドテラスは代官山に馴染み、街並みをつくっている。

このメタボリズム展を見に行く前日AIT(http://www.a-i-t.net)の第4回東京事典で、森美術館館長南條さんの話を聞いた。これからの都市はセミラティスがキーワードになるという話だった。
セミラティスとは、ヒエラルキーがなく要素が関連しあうようなことで、それが東京なんだという話だった。そして、東京の衷心は空虚な皇居である。だいたい世界の都市は歴史的にヒエラルキーが存在し、レジスタンスがあり、自由を奪い合う経緯をもっている。東京はそれがない、とても稀な都市なのだ。
今東京をブランディング仕様という話がるらしい、でもきっとうまくいかないと思う。意図的に切り取って、際立たせるというのは東京らしくない。

システムというのは神や愛のように、誰かにとってもしくはその集団にとっての崇高なものであり、何かしらを排除してしまう。一方、セミラティスというのは心粋のようなちょとした親切で、見返りを求めないし、誰もが与え与えられるよう関係によるものなものなんじゃないかと思う。

建築の話からは少し離れるのだけど、AIT第4回東京事典でヒントとなりそうに思えた事を2つほど挙げたい。
アーティストの藤浩志さんが東京という都市の未来へとつながるヒントを与えてくれた。藤さんはこのように例える。土・・・その土地やその土地の人々。種・・・その土地にある特徴。風・・・外部からやってきて、何かをする人(アーティストやコンサルタント)。光・・・メディア、批評家。水・・・関心をもって集まってくる人々。藤さんはこの水に関心をもっていて、水を集め水で栽培をするにはということを考えながら活動をしている。
これまで都市や街を活性化しよという時、「土」や「種」もしくは「風」にばかりが取り上げられてきた。藤さんは、あまり注目されてこなかった「水」こそ活性化の重要なファクターなのではないかという。
「水」は流れにもなるし、さっと引いていくこともある。人々は好きなもの関心のあるものに直感的に集まり、飽きれば離れていく。この理性や論理や利己のあまり介在しない「水」という存在を

もう一つは、南條さんが話していた隙間。戦後の力強い復興をした日本と今の中国に共通することは社会に隙間があったこと。今の日本は社会がシステムで雁字搦めで新しいものが生まれにくいようになっている。一方、中国は社会が整備されておらず不安定ではあるものの、法を始めとし様々な隙間があり、それが社会を力強いものとしている。


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  メジロスタジオの試みは合理性を逆手に取るというかたちの隙間から生まれたクリエイションの一例といえるかも。。。


東京のみならず、日本は集団が点々としそれがひしめき合うようなことでバランスをとってきた。それが基質だったわけで、元来がセミラティスの性質をもっていた。
そんな日本が海外の都市にいくら倣うことを考えても、何も始まらないのではないかと思う。

もしメタボリズムの未来展に行かれるのなら、日本らしい都市をイメージし、遠い未来の影を感じとってみてください。

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2011年7月 5日 (火)

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」@21_21 DESIGN SIGHT

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倉俣史郎&エットレ・ソットサス展を見ていたら、学生の頃読んだロバート・ヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」を思い出した。彼の考え方には、共感するものがあったけど、何故彼の建築はこの表現なのかと腑に落ちなかった。

ポストモダンの表現は、今から振り返れば受け入れ難いものが多い。どう考えてもただの記号の寄せ集めではないか、言葉遊びをするには建築というのは、強い存在で在り過ぎる。
建築学科に在籍していた頃、教授の中にはポストモダンの生き残りみたいな方もいらっしゃって、時代遅れだダサいと若気のいたりで小馬鹿にしたものだった。
じゃあ自分なりにモダニズムを批判したのかといえばそうではなく、今はこれだとオランダ建築に飛びついた。レム•コールハースに未来をみて、卒業設計も見事にコケた。。。アホな学生であった。
けれど、建築からは年々縁遠くなりながらも今回この展示を見て、ポストモダンを自分なりに問うこととなった。

今の建築、デザインは当然のことながらモダニズムを批判したポストモダンを経ている。モダニズムという思想は時を超えて常に問われる理性のデザインであって、それを批判することはなかなか骨の折れるはずだ。三十路も超え、ただただカッコいいとか、ポップでイケてるとかそんなことへの興味は年々萎えてきている。そんな今の自分には一つのいい問いのように思えた。

ポストモダンがノッていた時代、当時は経済成長がエンドレスかもしれないという幻想があった。西欧資本主義のイェス¥e$(eはユーロ)からChina元になるかもしれない現在、やっぱりポストモダンについて考えなければ、モダニズムは終われない。

今回の展示で表現の仕方を批判することは、 全く意味がないと思う。二人が目指したのは人間らしさへの回帰だ。モダニズムが排除した多様性や曖昧なもののなかに生命の根源を見出そうとした。

倉俣史郎さんの作品を眺めていると、吉岡徳仁さんはその継承者なんだとつくづく思う。素材を極め、あっと驚くレベルまで昇華する。
数十年後の活躍している吉岡さんの方が、加工技術の進歩もあるし、洗練された表現をしていると思う。けれど生命の表現では、倉俣さんの領域にはまだ到達していないと思った。

倉俣さんは時とともに変化する素材を好まないと言っている。僕は素材が経年で変化していくことが諸行無常で、受け入れるべきことと思っている。だからこの言葉を噛み締めてみたいと思った。
確かに、倉俣作品は時間が止まっている。生命を表現する時、有機的なモチーフを使うデザイナーが殆どだと思うけど、彼は全く違ったアプローチをしている。それにどうだろう。僕には椅子にもテーブルにも人が不在に思えた。もちろん有名な傘立てのような深澤直人さんへと繋がりそうな、遊びのあるものもある。
透明なアクリルの中に真っ赤な花を埋めた椅子ミス•ブランチ。閉じ込められた生々と死んでいる造花、装飾を排除しガラスのエッジを見せたり、割れたガラスをテーブルにしたり、その素材にとっての生と死のキワを 、その儚きキワの一瞬を形にすることで、生命を表現しているように思う。

天晴れの美、それが倉俣デザインなのかな。押井守のスカイクロラは、キルドレという大人になれない戦闘機乗りが空中でバトルすることでしを感じることで生を自覚できるといった。天晴れは哀れが転じてた言葉だ。死との瀬戸際を生きる武士を讃えた言葉が、天晴れ。

今回の展示でエットレ・ソットサスが最晩年にスケッチしたガラスの器を多数見ることができる。建築やプロダクトを手がけたデザイナーにしてはロジックの一切ないユーモラスでカラフルで、ガラスのオブジェ。そのスケッチはまるで小さな子どもが描いたもののように見える。
銘品と言われるオリベッティのヴァレンタイン(タイプライター)をデザインした彼が、メンフィスではカラフルで積み木遊びのようなものをデザインした。つまり、ソットサスにとってのポストモダンは、モダニズムが排除した多様性を取り戻すことだったわけだ。彼はそこに人間らしさを求めた。

2人にとってのポストモダンは人間らしさを追い求めながらも、全く違ったアプローチだったわけだ。西洋の強固なロジックから抜け出し自由な発想を目指したエットレ・ソットサス。日本という比較的に生きることに恵まれた環境で、更に経済成長の混沌の中に惰性で生きることは半ば死んでいると言わんばかりに、生死の境界を突いた倉俣四郎。
21世紀も10年経過し、大震災や原発の問題を抱えながらも、相変わらず問題をすぐ2択にしたり極論に振れて思考停止してしまう社会に唖然とする毎日。まずは、豊かさより先に人間らしさがあるということを再認識しない何も変わらない。人間らしさってなんだろううと、考えながら生きるということはアーティストのみならず、誰もが抱えるべき問題だと思った。

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2011年3月 4日 (金)

【book martin 41928】 008村上隆『芸術家起業論』『芸術家闘争論』

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僕が学生の頃、Rem Koolhaasという建築家にすごく惹かれました。斬新で、ポップで、不可解で、しかも資本主義というものをまるで手中にしているような感さえある。学生の間では、少ない頭で彼を読み解いてみようとする・・・といっても全然理解出来ていなかったのですが。。。
最近のRem Koolhaas及び彼の建築事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)についてはよく知らないのですが、たまに雑誌やネットで見かけると、ある部分で彼の建築がも変わってきているように感じます。

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彼の設計手法は大きく変わっていないと思います。それはプログラミングといってデータをベースにして建築を構築していく方法です。例えば、シアトル図書館は世界中の図書館を研究した結果であり、またハーバードでは資本主義の原動力であるShoppingの研究をしたり、建築の外での建築活動をAMOという形でマーケティング、ブランディング、コンサルティングをするといったように、人間の行動や経済との関わりを緻密にリサーチし解析していく。建築としての彼の面白みはこれらの上にあって、現実のデータが、既存概念の概念を超えて、予想外の形態として現実化するということです。あえてデザイン上の作風といえば、そういった既成概念を超えた部分を誇張したかのように形にすることで、スタイリッシュな中に意外性やアンバランスな感覚を持ち込むことでしょうか。そして発表される建築は見るものに毎回斬新さを感じさせます。

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変わってしまった部分の話に戻りますが、これがこの村上隆の著書につながってくるのです。僕らが学生であった頃、彼のプログラミングの話は難しくついていけないところがあった。そうすると結局、彼の意匠(デザイン)の話が中心になってきます。特に彼はポップでクールな意匠に過去の巨匠、特に近代建築の二大巨匠であるル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエの建築言語(デザインの表現手法)を批判的に使ったり、時にはコルビュジェの写真を真似たりもした。学生時分の僕らはプログラミングの話は放って、その読み解きの方に夢中になった。僕らだけではない、当時は文系な建築系の雑誌がまだあって、批評家たちもRem Koolhaasの意匠について論じていた。そして僕らは批評家たちの読み込みを読み込んで。。。と、そんな具合であった。
その後、Rem Koolhaasは意匠的な解釈云々というレベルでのことに興味が薄れてきたのか、徐々にデータを用いるの手法にどんどん進んでいったようです。特に中国をはじめとする急速に変化する新興国で新たな建築が生み出すことの方が興味深かいのでしょう。

Rem02

実は今回、村上隆さんの著書『芸術起業論』(2006年)と近著『芸術闘争論』(2010年)を連続して読む中で、Rem Koolhaasのやっていたことが氷解しました。この本には現代アートシーンを理解する前提を分かりやすくして説明してくれています。なおかつ、芸術家を志す人のためには芸術でお金を稼ぐ方法、つまり作品を売るための方法が書かれています。言うまでもなく、これらは勿論デッサン力など、ある程度の技量、実力はある、という前提での話。
まずアート市場の中心が西欧であることと、そのアート市場で作品を買っているのは主に富裕層であるという前提があります。市場性から真逆にあるかのように思える芸術であるけれど、一つの商品として考える場合はどうしてもこの文脈を外せない。ここに、海外で成功できる日本人芸術家が少ない理由があるというのです。

村上隆さんがいう西欧における現代美術のコンテクスト(文脈)とは以下の5つ。
自画像
エロス

フォーマリズム(ここでは歴史を意識すること。「厳密には内容より形式を重視し、形式的要素から作品を解釈しようという美学的傾向」のこと)
時事


日本であれば何々流といったように流れがあって、そのなかで異端な作家なんかがいて、新たな流れを生む。。。といった感地がしますが、西洋はやはり論理的で、新たなロジックで超えていくという感じがします。闇雲に自己陶酔的にオリジナリティを追求してもダメで「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」が大切といいます。そのためにはまず歴史を学べと、特に戦前戦後付近から現在に至る歴史を重点的に学べと言っています。他にもアートについての意外なことが書いてあります。日本人のアーティスト像はひとつの作風を生涯かけて創り上げていくようなものがありますが、アート市場では全くダメなようです。現代美術の世界ではアーティストに振り幅が求められる。常に新しい何かを感じさせる存在でなければならないのです。

Hiropon

村上さんがオタク文化を現代アートとして表現するとき、フィギュアを等身大にデカくしたりとか、ただ表現に新しさがあるというのではなく、それを美術史とつなげていく作業もをしていく。例えば、10年以上前でしたが、村上隆が「SUPER FLAT」という概念を掲げたことがありました。日本美術の2次元性やオタクの漫画の2次元性のつながり、またIT革命やグローバル化を通して、垂直的、ピラミッド的、中央集権的な世界の関係がフラットになっていく様子などFLATにはアートのそして世界の現状との関わりが込められているのです。昨年ベルサイユ宮殿で行われた大規模な個展も、歴史的な過剰な装飾とサブカルでオタク由来のアートがマッチングしているというか、させているように見せることのスゴさを感じます。

Rem Koolhaasがかつてやっていた巨匠からの批判的な引用は村上隆が現代アート界でやっていたことと同じことだな・・・おそらくと・・・思うわけです。実はよくデザインのサイトDezeenをよく見るのですが、新たな造形というより既成概念を抽象的にしたり、批判的に利用したもの、その上でスタイリッシュだったり新鮮だったりするものが多いなとも感じていました。建築史上の或いは美術史上の文脈にのせることで批評性のある作品にする。それが各分野の評論家の目に留まり論じられる。閉じているといえば閉じている、逆にわかる人にはわかるという構造になっているということなのです。
だから村上さんはこの構造を理解した上で、勝負しなきゃお金にはならない。儲けようとかではなく、食えるアーティストにならなければ、作品を作り続けていくことができないんだと。

もう一つ日本の美術教育の有り様をものすごく批判しています。美大・芸大へ入学する前に美術予備校でデッサンはとてもうまくなる。それは世界で他に例を見ないほど、日本の誇れる独自の教育システムだと。なのに、いざ美大・芸大へ入学すると宗教のように個性的なものを創れとばかり叩き込まれる。また、日本ではゴッホのように芸術家は金に貪欲であってはならない信仰が強い。自分だけのオリジナリティを独力で形しないといけない、みたいなことを思っている。
村上さんはそれじゃダメだと言っている。だから自身の工房カイカイキキでは徒弟制度のようなことをやっていて、村上隆の下働きみたいなことをしながらも、芸術家としての哲学的な部分から叩き上げるみたいなことをしている。

この本は現代美術作家になりたい人にとっては必読でしょう。村上隆さんを知りたい人も必読でしょう。アート鑑賞好きの人にとっては、現代アート基礎の基礎となる仕組みを分かりやすく説明してくれています。そして、アーティストたるものがなぜマイノリティで、アナーキーで、破滅的で謎めいたものでなければならないのか。演じる者、読み解く者、それを盛り上げる者、遠いところから眺める者・・・こういった構造が世界の一つの断面であるということ。オタクなものがロー・アートが最先端のハイ・アートになるというようなこと。。。

村上隆のFM芸術道場はなかなかおもしろいです。ポッドキャストでも聴けます。

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2011年2月26日 (土)

【book martin 41928】 007『世界を変えるデザイン』

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現在の社会はまさしく「暴走する資本主義」であって、誰もがそこに疑問を抱きながらもなかなかそこから離脱することもできないでいる。その原因の一つは金融にあり、もう一つは企業とりわけ大企業、グローバル企業といわれるものの利益至上主義にあるように思う。だから個人的には、大企業というものを毛嫌いしている感があるのは否めない。でも大量生産や工業というものがバランス良く機能していた時代もあったわけだ。この先、今の行き詰まりを超えて次のステップの資本主義へ移行していくと思うけど、その中で企業も何かしらの新たな基準で役目を果たしていくはず。ただその時に、電気自動車のような、あくまで僕らが今いるような先進国(この言い方さえ最近気に入らないのだけれど)にとってよいものばかりではどうしようもない。
ポランニーや柄谷行人がいうような互酬と再配分が根底にある社会へと発展していかなければ、明るい未来はないと思う。これまでは貧困に喘いでいる国に対して、資金的な援助が行われてきた
再配分というのはお金だけではない。この本でいくつもの例が示されているのは、デザインというものの力で、そのお金での援助の何倍もの価値のある実績をもたらしたものばかりだ。
たしかにそこにはボランティアや利益を追求しない形で、多くの人が携わっているということもあるけれど

この本は2007年に「Design for the other 90%(残りの90%のためのデザイン)」展にあわせてつくられたものだ。日本でも「世界を変えるデザイン展」として昨年2010年5月に六本木で開催されていた。この90%という数字は何かというと、世界の95%のデザイナー達はこれまで先進国の10%の富裕な人々に向けてしかデザインしてこなかったということを指している。Design for the otherという活動は現在も進行中のようです。
ちなみにBOPビジネスという言葉も、初めて知りました。BOPとは「Base of the Pyramid」(ピラミッドの底辺)にあたる貧困層のことで、BOPビジネスとはそういった層を相手にしたビジネスのこと。

水があること、ガスがあること、明かりがあること、という生きていく上でかなり基本的な水準のことがないといったいどのような生活になるか日本で楽に暮らす僕らには想像を絶する。僕らが生きていけることが、気付きもしない沢山の恵みの重層の上で成立しているのだと・・・。
例えば水がないこと、水を遠地まで汲みに行かなければいけないことで、多くの時間が失われる。大人が桶を頭の上にのせて運んでいるとしよう。まずそれだけで仕事に行けない。お金を得る機会から、疎外されてしまう。親が十分に仕事ができなければ、子は仕事を手伝う為に学校へは行けず、教育も受けられない。
ガスがないところでは薪や草、紙、乾燥した動物の糞を燃料として使う。実はこれらがものすごく体に悪い。1歳から5歳までの子供の死因第一位は、呼吸器の疾患でその原因はこれら質の悪い燃料から発生する煙に含まれる微粒子によるものなのだ。

ポール・ポラック(かつて投資で稼ぎ、今は貧困層へのサポートをしている)は貧困層へのデザインで需要な点として、「手頃な価格、小型化、拡張性」をあげている。特に価格に関しては、価格方がいいとかではなく、手頃な価格でなければ買えないということ。そして価格を安くするための方法として以下のようなポイントがある。

・道具に厳しい減量を課す・・・最高の性能が導けなくても8割の性能に落とすことで、材料が大幅に減量できる場合がある。
・余剰性は余計なものと考える
・歴史にさかのぼるデザインで前進する・・・最新版は今の技術で最適なデザインとなっているのでかつてのデザインを振り返ってみる。
・最新素材で古い素材をアップデートする
従来からあるものを妥当な価格の範囲で性能が向上する新素材に変えることができないか検討する
・継続的に拡張できるものにする
そしてこれが大切で、少しずつ買い足していくことができるということ。例えば畑の灌漑設備の場合、はじめに1エーカーだけに設置し、利益が出たら新たにもう1エーカー追加するといったことが必要になる。

貧困層の自立を目的とした商品を開発するキックスタート(http://www.kickstart.org)は、こういった貧困層をサポートするプロダクトは無料ではいけないと言っている。これは生きることに尊厳を見いだしてもらいたいからだそううだ。
・貧困に対する持続可能な解決策を創り出す為・・・。サプライチェーン(商品供給の流通経路)をもち、そこに関わる者たちが利害関係者となることで、持続可能な事業となる。これがないと現実味のないものになってしまう。
・費用効率を高くする・・・寄付金などだけで無償で配布すると、商品のバージョンアップなどが行えない。有償とすることで、よりよいものへとしていくことができる。地域のある一人が購入し、それを見て周りの人へと拡がていくようになる。
・公正の問題・・・無料で配布するのであると、資金的に配布できる範囲が限定されてしまう。
・個人所有・・・誰でも自分のものは大切に使う。

キックスタートではこいった商品を「できる限り先進的な工場に生産を集中させることで、耐用年数の長い高品質な製品を低価格で生産できる」としている。人が生きるために、高品質な物の大量生産することであったり、それらが流通する仕組みが機能していくのはとても重要と感じる。
生きる為の消費と関わる時、分業や大量生産はとても大きな意味をもつ。お金だけでなく、デザインや知識、知恵という形での再配分というのもあるということ。環境問題、人口問題、貧困問題、金融の暴走・・・たくさんの問題を抱えて先行きは不安定な世界ではあるけれど。
これまでの需要と供給はあまりに一方通行だったのかもしれない。それによって光と影のコントラストがハッキリし過ぎてしまった。情報がインタラクティブになったと言われるように、これからは物の生産でも双方向でなければならない。この本には、この先を示唆する物が含まれているような気がする。上に挙げた、価格を安くするための方法や有償でサポートする理由のリストには、少し具体的なヒントではないかと・・・。

たくさんの事例が掲載されています。 一部を紹介するとこんな感じです。

・100ドルのラップトップ・コンピュータ
100pc
・転がして水を運ぶ「Qドラム」

Qdrum
・さとうきびの練炭・・・
地元で取れるものを利用して、煙が少なく、簡単な設備で量産できる、廃棄するものを使うので薪のための伐採も減る

・ソーラ充電の補聴器・・・
従来の補聴器は電池式で、電池は高価、しかも遠隔地まで買いに行かねばならなかった。

・足踏みのポンプ・・・
畑に水を送り込むポンプ
Moneymakerpump

・住居用土ブロック製造機

・灌漑設備・・・
安価で拡張しやすいように出来ている。初期設置で利益が出たら、拡張し、また利益が出たら拡張し、と収入の循環が生まれやすい。

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2010年11月 6日 (土)

HIRAMEKI Design × Finland

先日HIRAMEKI Design × Finlandへいってきました。
詳しい内容はこちらで見て頂きたいのですが、個人的に腑に落ちたことがありましたので、それについて書こうと思います。

何かといえば、シンプルということです。北欧のデザインはシンプルかつ温もりがある、なぜかなと思っていました。でも一緒にいた方の一言でそれが氷解したわけです。
その一言とは

・・・家で過ごす時間が長い国ですからね・・・

あっ!そうかと思いました。家にいる時間が長ければ自然とより住環境に気を配る。そんな中で生まれるのが北欧デザインと言われるものなんだ・・・と。

例えば、展示されていたこの小さなコーヒーテーブル、かなり重い。一見、こんなテーブルは片手でヒョイだと思って手をかけると、ものすごくしっかりしている。縁にかけての100mmくらいがテーパーしていて薄く見えるけど、中央部は30~40mmくらいは厚みがあってものすごく頑丈だった。

Hiarameki_habitek_m4_lores

たとえポップなデザインでも北欧のそれはメタなところで温もりと長持ちを考えられている、だから違ってくるのだなと。

翻って欧米や日本のことを考えてみると
欧米のシンプルは単純化やルールのようなものを大切にしていると思います。
(欧も米も分けずに言うのはかなり乱暴ですが・・・)
日本のそれは、本来違ったところに良さがあったはずだけど、最近は欧米と同じように考えていると思うのです。
つまり、素材など発想のはじまりは日本なのだけどデザインの編集が欧米流の編集になっている。
日本のシンプルにも単純化というか、引き算の文化があります。でも忘れてはいけないのは日本の場合、引きっぱなしではないこと、引いた分あるいはそれ以上を想像力で拡がりをもたせるということ。
枯山水、小間の茶室、能や俳句・・・。

経済の論理が入ってくるとデザインの話はどうしても表層の部分になりがちだけど、こういったメタな部分まで入ってこそ大切な学びがあるのだと思います。

フィンランド、ムーミンの故郷ですね。ムーミンもシンプルなラインで描かれたキャラクターで温もりのある容姿ですよね。


明日までですがね

『HIRAMEKI Design × Finland』

期間/10月29日(金)〜11月7日(日) 10:30〜19:00
場所/リビングデザインセンターOZONE
新宿区西新宿3-7-1 新宿パークタワー
1F(アトリウム、ギャラリー1&3)
3F(OZONEプラザ、パークタワーホール、ホワイエ)
7F(リビングデザインギャラリー)

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2010年9月13日 (月)

銀座目利き百貨街(日本デザインコミッティー主催)

昨日、松屋銀座で開催中の銀座目利き百貨街に行ってきた。
日本デザインコミッティーが2年に一度開催するイベント。
今回はグラフィックデザイナー原研哉さんの企画。

以下説明文webより転載→

銀座目利き百貨街」は四十九人の店主が、それぞれの目を利かせて選定する四十九のセレクトショップからなるわずか六日間の商店街です。
建 築家、博物学者、茶道家、デザイナー、現代美術家、編集者、骨董店店主、脚本家、イラストレーター、評論家、造形家、キュレーター、和紙職人、プロデュー サーなどなど、物を見る目の力が問われる仕事をしている方々に、それぞれ眼力を発揮してもらい、普段では見かけない、逸品、稀少品、珍品の数々を取りそろ え、展示・販売するという企画です。
「目利き」とは、真贋を判定するアカデミックな鑑定眼という意味ではなく、個性的な仕事をしている参加者一人一人の独自の目を活かして、商品を選定していることに由来する言葉です。

転載ここまで←

自分のデザインしたものを出品する人もいれば
自分が目利きして選んだ人もいたり
古本や美術品を売る人もいたり
やる気満々の人もいればテキトーもいてと色々だった。

結構急ぎ足でみたので、会場が混んでいたので
じっくりは見れなかったのだけれど、僕の良いと思ったのは

・芦原太郎さんの選んだティーパック
絶妙な遊び心のあるデザインで良かった

・北川原温さんの選んだサイコ
金属製ののお香の容器で何とも不思議な形

・喜多俊之さんの選んだ寄木細工
心地よいカラフルさと形状のシンプルさが何ともかわいらしい。

・松岡正剛さんの見開き屋
松岡さんの得意のレイアウト(本の見開きの左右ページを関連付けたり、対比的に使う)をアートのようにしたもの

展示品は基本的に購入可能です。
500円くらいのものから100万以上のものまで
会期は短く14日の火曜日まで既に売り切れもあったけど

そう、ナガオカケンメイ×小泉誠のトークショーを途中まで聞いた。
ナガオカケンメイさんは自分の店(D&DEPARTMENT)で、デザイナー自身が使っていないと判明したものは即売り場から撤去だと
・・・さすがだ
 

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2010年7月29日 (木)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その3

● 属性と自分らしさ

人が求める属性と社会が与える属性にはズレがある。でもいつしかそれを
基準に人は属性を求めていく。

僕は以前ハッとしたことがある。
自分を見失って、悩んで、息詰まっていた時ある人にこう言われた。
「自分の好きなようにやってみなさい」と。

そのあと、しばらく自分がやりたいように行動してみた。でも何か晴れな
かったし、満たされるものがなかった。
好きなようにやっているのに、開かれないし、自由にも思えない。
その時立ち止って考えた、そしてわかったのは「自分の好きなようにやっ
てみる」という中で、自分というものが殆んどが実は「世間」だったとい
うことだった。
この得体の知れない、大きく朦朧とした薄光りする「世間」というものを
自分から除去する作業はしばらくかかった。捨てるべきとわかったことで
もあっさり手放せない。
会社員、サラリーマンということに嫌気が差しながらも、実はそうである
ことに安心している自分がいたことにも気付かされた。
やりたいことを考える時に、「収入」ということをかなり重要視してい
ることにも気付いた。
自分が素敵だと思えるというより、社会的に素敵と思われていることを追いかけていることに気付いた。

このセケンという境界の重ね塗りの畦道には、属性というポイントが点在して、人はそこにおいてあるリボンを一つ一つ集めていく。
でもそんな集めねばと思って集めた属性は、いつまで自分の属性であり続けるのだろう。自分が求めた属性は、脆い、それが世間の産物であれ尚更脆い。

属性に含まれない、或いは属性とされないといったもののに本当のみるべきものがあるのではないか。
いきなり飛びついて得たような属性はあまりに脆弱で・・・そう思う。
人が求めてるのは、不安をきっちり通過したものであったり、日常からであったり、わかりやすく言えば、
私は○○でない、△△が苦手だ、自信がない、不安だ・・・こういったもの積み重ねの方に、人々が得たい本当のものがあるのではないかと。

あえて・・・言ってみました。

佐藤雅彦さんは、今回の展示は楽しむんじゃなくて、大きな疑問を抱えな
がら家路について欲しい、と話していました。
“これも自分と認めざるをえない”この言葉に隠されたものは何か、ぜひ考えてみてください。

(終わり)

※ 体験型の展示が多いので、人が少なそうな時に行くのをおススメします。

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2010年7月28日 (水)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その2

● 属性を求める人、属性に当てはめる社会・・・属、族、俗

人は心身の居場所を求める・・・属性を多く持てば持つほど、わかればわ
かるほど安心する。
自分のことを理解できないことは不安で仕方がない。
人はこうした属性を持つことを望む。
自分を知り、他人との違いを知りたがる。

男/女であること
結婚していること
サラリーマンであること
仕事が○○であること
肩書きをもつこと
年収が△△万以上であること
趣味が○○であること
個性があること
夢があること
目標があること
**座
血液型は#型
車は△△に乗っている
お洒落な○○を持っている
・・・

一方、社会は人々を属性で分類したがってる。
今回の展示では、入場後すぐに身体を計測する(数値は公開されな
いのでご安心を・・・)。我われ鑑賞者は最新の機器によってデータ化された身
体や動作の特徴
を属性として分類される。ここでの身体データはインスタレーションで使
われるので、計測された方が展示を楽しめるわけで・・・。

今、googleは検索ワードから人の興味を属性として分析して、ネッ
ト画面にしょっちゅう出てくるgoogle adにいかされている。
googleが社会の塊がその瞬間(とき)に何に関心をもっている
かを分析しているけれどしtwitterはつぶやきのタイムラインから
個人の思考の偏りや考えの変化を分析している。映画好きがtwitter
でどんな状況で映画を見ているのかつぶやく、どんなジャンルの映画で、
何処で、何を飲みながら、何を食べながら、誰と・・・それが昼なら、夜
なら、夏なら、冬ならと・・・。

展示の中に鑑賞者が何を見ているかわかるというインスタレーションが
あった。何を見ているかということは、何に興味があるとか、何を考えているかと
か、といった思考をスキャニングするのに近いと思う。
そのうち、動作や表情からだけでも何を考えているかがデータ化されるよ
うなことが起きてしまうだろう。
属性を明らかにすることで、人の思考をお金に結びつけることにな
る・・・だから何処までも研究は続く、たぶん行き過ぎるところまで。

その昔、経済学でお金に換算できないものが3つあるとされてい
た。
それは「労働(≒人)」、「土地」、「貨幣」
今は当たり前のように土地は売買され、貨幣にも価格がつけられ取引され
ている。
マルクスは「労働」つまり人という価値を基準に経済を論じた。今となっ
ては正社員という雇用形態は減り続け、企業側が責任を持たずに融通のき
く派遣やバイトばかりが増えていく。これで労働者の身体は確実に不安定
になった。さあ、この思考の属性を分析するということはどうなるのだろ
う、人は消費者として労働者として益々ばらばらで不安定で、市場にとっ
ては益々融通のきく存在となっていく・・・いつまで続くのか、何処で均
衡してくれるのか。

(続)その3へ

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2010年7月27日 (火)

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と 認めざるをえない”展」 その1

21_21 design sightで始まった佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と
認めざるをえない”展」ならびにそのオープニングトークに行ってきまし
た。

● 人は意外と自分に「無頓着」?

佐藤さんの話は「属性」をテーマに行われました。
いくつか興味深いことはあったのですが、その中の一番心の残ったことを
書きます。
それは、『人は意外と自分に「無頓着」である』ということ

魚や四足歩行の動物は、自分が存在することは知っているけど、自分の姿
を知らない。自分の群れ他の生き物を見ることが、己へとつながってい
く。
動詞で考えると、自動詞しかない・・・「歩く、泳ぐ、食べる」。

一方、人間やチンパンジーは二足歩行で手を自由に操る。視界に入る自分
の手の動きを通して自己の姿や存在を認識する。
動詞で考えると、他動詞もありえる・・・「食べさせる、殴る、運ぶ」。

鏡を鏡と認識できるのも手を操れる人間やチンパンジーなんだそう
で・・・
この展示のインスタレーションで自分の写らない鏡がある。
でもその状況を読み取りながらも、その鏡の前に立っても違和感をあまり
感じない。

これは魚や四足歩行の哺乳類からのDNAなのであろうか。
人は、自分の姿を見ることより、人を見て自分の存在を確認しているということなのかもしれない。
つまりは、自分の存在を確認するきっかけは常に他者にあるということな
のだろうか。
たぶん他者を見て、自分との違いを認識して初めて自分の存在を知
る、アイデンティティを認識しているのかもしれない。

(続)その2へ

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2010年7月10日 (土)

「能の雅(エレガンス) 狂言の妙 (エスプリ)」展 ・・・もうNO!なんて言わない

原研哉さんも、深澤直人さんも、有名なデザイナー方々は日本の文化に詳しいですよね。
僕の好きな建築家・村野藤吾も和風をやったら最高だった・・・しかも創造的に進化をさせて。
若い頃は、西洋にカブレまくっていたけれど、年をとるにつれ、日本のことが知りたくなってきます。
というよりもこの避けられないグローバリゼーションの波動の中で、日本人というアイデンティティをどれだけもてているのかという不安さえ覚える。
まだまだ僕が知らない、そして知りたい日本の文化、その一つが能です。

ということで、サントリー美術館で開催中の「能の雅(エレガンス) 狂言の妙 (エスプリ)」展を見てきました。

能や狂言は興味は有りつつも、食わず嫌いでした。
僕のレベルとしては、NHKでたまにやってる能?狂言?(・・・判別すらできない)をしばらく眺めるも、意味不明で挫折。
といった程度。

今日解かった知識としてはこんな感じです・・・・
能も狂言の起源は、奈良時代に中国から伝わった散楽(さんがく) と、
豊作を祈る民俗芸能の田楽(でんがく)や、
物まねをする猿楽(猿楽)などが混ざり合って生まれたそうです。
その後、能は上流階級の娯楽として、狂言は庶民の娯楽として分かれていったと。
内容は能は悲観的なものが多く、狂言には笑いがある。

あとはよくわからないので、感じてきました。
能の装束は絢爛豪華、一方狂言のそれは質素。
能の羽織の模様は殆んど刺繍(・・・気の遠くなるようなスゴイ刺繍)だったり、
金の箔を貼っいたりまさに雅。
一方狂言の羽織の柄は庶民的な染めで、派手さもない。

面白かったのが、能の小道具。
和太鼓を載せる台や、車輪のついたリアカーみたいなものがあるのだけど、
竹細工みたいなもので輪郭だけを作ってある・・・。
つまりは、後ろが透け透け。
・・・今はもちろん使い回しだけど、その昔は毎回作っていたそうです。

道具や装置が少ないし、それらも仮設のようなものばかり。
あとは動きや仕草で表現するということのようです。
きっと場所を転々を移動していた名残が、そのまま形式となったんでしょうね。
でもこんな仮設のまま形式にしてしまうのって、どこか日本的な方法のように思えます。
西洋と違って威風堂々でなく、未来永劫といった感じではなく
どこか不安定で、アウトサイダーな感じが気になる。

最近は松岡正剛の弱さの考えや、網野善彦が描く日の当たらなかった歴史が気に入っているだけに
余計にそう思う

日本の芸能って、落語なんかもそうですが、少しの小道具だけで、色々なものを表現する。
前提を共有しているからこそなわけで、逆に言えばちょっと敷居が高いかな。
予備知識をもって能や狂言を観たらきっと奥深いんだろうなぁ。。。

少しずつ勉強してみよ。。。

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