martin book 41928

2011年6月 5日 (日)

【book martin 41928】 009網野善彦『無縁・楽・公界』

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歴史は疎いから、いつも大意つかむのでやっとになる。歴史の本は資料がたくさん出てくるけど、それに一つ一つ食いついていたら読み終わらないので、ざっくりエッセンスだけ頂く感じ。網野さんの本は何冊かよんだけど、いつも網野史観はいいと思うな。権力側からみた歴史でなく、庶民からみた歴史。

この『無縁・公界・楽(むえん、くがい、らく)』は日本のアジール(聖域)の話。日本には権力の及ばない、社会から無縁の地域や場があった。治外法権で借金取りさえ追ってこれないような場。地域としては、博多や出島の長崎、桑名なんかも。博多には豊臣秀吉の御家人は屋敷を建てる事ができなかった。あとはいくつかの寺社の敷地内も無縁の場、例えば縁切り寺もその一つで、江戸時代は女性から離縁を迫ることができなかったけど、数年間そこで修行すれば縁切りが成立する。

面白いのは、楽市の話しかな。一般的に信長が自由市場を設けることで、尾張に商業を集中させて、他の大名から経済力を削ぐ目的があったとされているけど、網野善彦さんの見たては違う。楽は無縁の場で、社会にとってのアジールであったというもの。世の無縁の場にこそ経済発展のうごめきがあった。

寺の建立の為に資金を調達する勧進という職がある。この寺は最もわかりやすいアジールで、アジールだからこそ勧進という役割が成り立つ。アジールに属する勧進だからこそ、進んで寄進することができる。これは何かといえば、人の経済的な感覚というのは、利益を得るという事にかなり違和感があったということ。

無縁とされる場だからこそ儲けるとか寄付するということを行いやすかった。
西洋の資本主義のエートス(行動の動機)がプロテスタンティズムの勤勉さからきたというヴェーバーの話は有名だけど、日本の経済もこの世から距離をとった聖域で経済が発展した。これは、今の社会の経済観を疑う上で重要だと思う。ポランニーのいうような、生きるための交換が経済の始まりであり、人は損得で行動するという昨今の経済観の方が人類史上では異質であることを示す例となる。


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2011年3月 4日 (金)

【book martin 41928】 008村上隆『芸術家起業論』『芸術家闘争論』

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僕が学生の頃、Rem Koolhaasという建築家にすごく惹かれました。斬新で、ポップで、不可解で、しかも資本主義というものをまるで手中にしているような感さえある。学生の間では、少ない頭で彼を読み解いてみようとする・・・といっても全然理解出来ていなかったのですが。。。
最近のRem Koolhaas及び彼の建築事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)についてはよく知らないのですが、たまに雑誌やネットで見かけると、ある部分で彼の建築がも変わってきているように感じます。

Rem01

彼の設計手法は大きく変わっていないと思います。それはプログラミングといってデータをベースにして建築を構築していく方法です。例えば、シアトル図書館は世界中の図書館を研究した結果であり、またハーバードでは資本主義の原動力であるShoppingの研究をしたり、建築の外での建築活動をAMOという形でマーケティング、ブランディング、コンサルティングをするといったように、人間の行動や経済との関わりを緻密にリサーチし解析していく。建築としての彼の面白みはこれらの上にあって、現実のデータが、既存概念の概念を超えて、予想外の形態として現実化するということです。あえてデザイン上の作風といえば、そういった既成概念を超えた部分を誇張したかのように形にすることで、スタイリッシュな中に意外性やアンバランスな感覚を持ち込むことでしょうか。そして発表される建築は見るものに毎回斬新さを感じさせます。

02

Rem03

変わってしまった部分の話に戻りますが、これがこの村上隆の著書につながってくるのです。僕らが学生であった頃、彼のプログラミングの話は難しくついていけないところがあった。そうすると結局、彼の意匠(デザイン)の話が中心になってきます。特に彼はポップでクールな意匠に過去の巨匠、特に近代建築の二大巨匠であるル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエの建築言語(デザインの表現手法)を批判的に使ったり、時にはコルビュジェの写真を真似たりもした。学生時分の僕らはプログラミングの話は放って、その読み解きの方に夢中になった。僕らだけではない、当時は文系な建築系の雑誌がまだあって、批評家たちもRem Koolhaasの意匠について論じていた。そして僕らは批評家たちの読み込みを読み込んで。。。と、そんな具合であった。
その後、Rem Koolhaasは意匠的な解釈云々というレベルでのことに興味が薄れてきたのか、徐々にデータを用いるの手法にどんどん進んでいったようです。特に中国をはじめとする急速に変化する新興国で新たな建築が生み出すことの方が興味深かいのでしょう。

Rem02

実は今回、村上隆さんの著書『芸術起業論』(2006年)と近著『芸術闘争論』(2010年)を連続して読む中で、Rem Koolhaasのやっていたことが氷解しました。この本には現代アートシーンを理解する前提を分かりやすくして説明してくれています。なおかつ、芸術家を志す人のためには芸術でお金を稼ぐ方法、つまり作品を売るための方法が書かれています。言うまでもなく、これらは勿論デッサン力など、ある程度の技量、実力はある、という前提での話。
まずアート市場の中心が西欧であることと、そのアート市場で作品を買っているのは主に富裕層であるという前提があります。市場性から真逆にあるかのように思える芸術であるけれど、一つの商品として考える場合はどうしてもこの文脈を外せない。ここに、海外で成功できる日本人芸術家が少ない理由があるというのです。

村上隆さんがいう西欧における現代美術のコンテクスト(文脈)とは以下の5つ。
自画像
エロス

フォーマリズム(ここでは歴史を意識すること。「厳密には内容より形式を重視し、形式的要素から作品を解釈しようという美学的傾向」のこと)
時事


日本であれば何々流といったように流れがあって、そのなかで異端な作家なんかがいて、新たな流れを生む。。。といった感地がしますが、西洋はやはり論理的で、新たなロジックで超えていくという感じがします。闇雲に自己陶酔的にオリジナリティを追求してもダメで「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」が大切といいます。そのためにはまず歴史を学べと、特に戦前戦後付近から現在に至る歴史を重点的に学べと言っています。他にもアートについての意外なことが書いてあります。日本人のアーティスト像はひとつの作風を生涯かけて創り上げていくようなものがありますが、アート市場では全くダメなようです。現代美術の世界ではアーティストに振り幅が求められる。常に新しい何かを感じさせる存在でなければならないのです。

Hiropon

村上さんがオタク文化を現代アートとして表現するとき、フィギュアを等身大にデカくしたりとか、ただ表現に新しさがあるというのではなく、それを美術史とつなげていく作業もをしていく。例えば、10年以上前でしたが、村上隆が「SUPER FLAT」という概念を掲げたことがありました。日本美術の2次元性やオタクの漫画の2次元性のつながり、またIT革命やグローバル化を通して、垂直的、ピラミッド的、中央集権的な世界の関係がフラットになっていく様子などFLATにはアートのそして世界の現状との関わりが込められているのです。昨年ベルサイユ宮殿で行われた大規模な個展も、歴史的な過剰な装飾とサブカルでオタク由来のアートがマッチングしているというか、させているように見せることのスゴさを感じます。

Rem Koolhaasがかつてやっていた巨匠からの批判的な引用は村上隆が現代アート界でやっていたことと同じことだな・・・おそらくと・・・思うわけです。実はよくデザインのサイトDezeenをよく見るのですが、新たな造形というより既成概念を抽象的にしたり、批判的に利用したもの、その上でスタイリッシュだったり新鮮だったりするものが多いなとも感じていました。建築史上の或いは美術史上の文脈にのせることで批評性のある作品にする。それが各分野の評論家の目に留まり論じられる。閉じているといえば閉じている、逆にわかる人にはわかるという構造になっているということなのです。
だから村上さんはこの構造を理解した上で、勝負しなきゃお金にはならない。儲けようとかではなく、食えるアーティストにならなければ、作品を作り続けていくことができないんだと。

もう一つ日本の美術教育の有り様をものすごく批判しています。美大・芸大へ入学する前に美術予備校でデッサンはとてもうまくなる。それは世界で他に例を見ないほど、日本の誇れる独自の教育システムだと。なのに、いざ美大・芸大へ入学すると宗教のように個性的なものを創れとばかり叩き込まれる。また、日本ではゴッホのように芸術家は金に貪欲であってはならない信仰が強い。自分だけのオリジナリティを独力で形しないといけない、みたいなことを思っている。
村上さんはそれじゃダメだと言っている。だから自身の工房カイカイキキでは徒弟制度のようなことをやっていて、村上隆の下働きみたいなことをしながらも、芸術家としての哲学的な部分から叩き上げるみたいなことをしている。

この本は現代美術作家になりたい人にとっては必読でしょう。村上隆さんを知りたい人も必読でしょう。アート鑑賞好きの人にとっては、現代アート基礎の基礎となる仕組みを分かりやすく説明してくれています。そして、アーティストたるものがなぜマイノリティで、アナーキーで、破滅的で謎めいたものでなければならないのか。演じる者、読み解く者、それを盛り上げる者、遠いところから眺める者・・・こういった構造が世界の一つの断面であるということ。オタクなものがロー・アートが最先端のハイ・アートになるというようなこと。。。

村上隆のFM芸術道場はなかなかおもしろいです。ポッドキャストでも聴けます。

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2011年2月26日 (土)

【book martin 41928】 007『世界を変えるデザイン』

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現在の社会はまさしく「暴走する資本主義」であって、誰もがそこに疑問を抱きながらもなかなかそこから離脱することもできないでいる。その原因の一つは金融にあり、もう一つは企業とりわけ大企業、グローバル企業といわれるものの利益至上主義にあるように思う。だから個人的には、大企業というものを毛嫌いしている感があるのは否めない。でも大量生産や工業というものがバランス良く機能していた時代もあったわけだ。この先、今の行き詰まりを超えて次のステップの資本主義へ移行していくと思うけど、その中で企業も何かしらの新たな基準で役目を果たしていくはず。ただその時に、電気自動車のような、あくまで僕らが今いるような先進国(この言い方さえ最近気に入らないのだけれど)にとってよいものばかりではどうしようもない。
ポランニーや柄谷行人がいうような互酬と再配分が根底にある社会へと発展していかなければ、明るい未来はないと思う。これまでは貧困に喘いでいる国に対して、資金的な援助が行われてきた
再配分というのはお金だけではない。この本でいくつもの例が示されているのは、デザインというものの力で、そのお金での援助の何倍もの価値のある実績をもたらしたものばかりだ。
たしかにそこにはボランティアや利益を追求しない形で、多くの人が携わっているということもあるけれど

この本は2007年に「Design for the other 90%(残りの90%のためのデザイン)」展にあわせてつくられたものだ。日本でも「世界を変えるデザイン展」として昨年2010年5月に六本木で開催されていた。この90%という数字は何かというと、世界の95%のデザイナー達はこれまで先進国の10%の富裕な人々に向けてしかデザインしてこなかったということを指している。Design for the otherという活動は現在も進行中のようです。
ちなみにBOPビジネスという言葉も、初めて知りました。BOPとは「Base of the Pyramid」(ピラミッドの底辺)にあたる貧困層のことで、BOPビジネスとはそういった層を相手にしたビジネスのこと。

水があること、ガスがあること、明かりがあること、という生きていく上でかなり基本的な水準のことがないといったいどのような生活になるか日本で楽に暮らす僕らには想像を絶する。僕らが生きていけることが、気付きもしない沢山の恵みの重層の上で成立しているのだと・・・。
例えば水がないこと、水を遠地まで汲みに行かなければいけないことで、多くの時間が失われる。大人が桶を頭の上にのせて運んでいるとしよう。まずそれだけで仕事に行けない。お金を得る機会から、疎外されてしまう。親が十分に仕事ができなければ、子は仕事を手伝う為に学校へは行けず、教育も受けられない。
ガスがないところでは薪や草、紙、乾燥した動物の糞を燃料として使う。実はこれらがものすごく体に悪い。1歳から5歳までの子供の死因第一位は、呼吸器の疾患でその原因はこれら質の悪い燃料から発生する煙に含まれる微粒子によるものなのだ。

ポール・ポラック(かつて投資で稼ぎ、今は貧困層へのサポートをしている)は貧困層へのデザインで需要な点として、「手頃な価格、小型化、拡張性」をあげている。特に価格に関しては、価格方がいいとかではなく、手頃な価格でなければ買えないということ。そして価格を安くするための方法として以下のようなポイントがある。

・道具に厳しい減量を課す・・・最高の性能が導けなくても8割の性能に落とすことで、材料が大幅に減量できる場合がある。
・余剰性は余計なものと考える
・歴史にさかのぼるデザインで前進する・・・最新版は今の技術で最適なデザインとなっているのでかつてのデザインを振り返ってみる。
・最新素材で古い素材をアップデートする
従来からあるものを妥当な価格の範囲で性能が向上する新素材に変えることができないか検討する
・継続的に拡張できるものにする
そしてこれが大切で、少しずつ買い足していくことができるということ。例えば畑の灌漑設備の場合、はじめに1エーカーだけに設置し、利益が出たら新たにもう1エーカー追加するといったことが必要になる。

貧困層の自立を目的とした商品を開発するキックスタート(http://www.kickstart.org)は、こういった貧困層をサポートするプロダクトは無料ではいけないと言っている。これは生きることに尊厳を見いだしてもらいたいからだそううだ。
・貧困に対する持続可能な解決策を創り出す為・・・。サプライチェーン(商品供給の流通経路)をもち、そこに関わる者たちが利害関係者となることで、持続可能な事業となる。これがないと現実味のないものになってしまう。
・費用効率を高くする・・・寄付金などだけで無償で配布すると、商品のバージョンアップなどが行えない。有償とすることで、よりよいものへとしていくことができる。地域のある一人が購入し、それを見て周りの人へと拡がていくようになる。
・公正の問題・・・無料で配布するのであると、資金的に配布できる範囲が限定されてしまう。
・個人所有・・・誰でも自分のものは大切に使う。

キックスタートではこいった商品を「できる限り先進的な工場に生産を集中させることで、耐用年数の長い高品質な製品を低価格で生産できる」としている。人が生きるために、高品質な物の大量生産することであったり、それらが流通する仕組みが機能していくのはとても重要と感じる。
生きる為の消費と関わる時、分業や大量生産はとても大きな意味をもつ。お金だけでなく、デザインや知識、知恵という形での再配分というのもあるということ。環境問題、人口問題、貧困問題、金融の暴走・・・たくさんの問題を抱えて先行きは不安定な世界ではあるけれど。
これまでの需要と供給はあまりに一方通行だったのかもしれない。それによって光と影のコントラストがハッキリし過ぎてしまった。情報がインタラクティブになったと言われるように、これからは物の生産でも双方向でなければならない。この本には、この先を示唆する物が含まれているような気がする。上に挙げた、価格を安くするための方法や有償でサポートする理由のリストには、少し具体的なヒントではないかと・・・。

たくさんの事例が掲載されています。 一部を紹介するとこんな感じです。

・100ドルのラップトップ・コンピュータ
100pc
・転がして水を運ぶ「Qドラム」

Qdrum
・さとうきびの練炭・・・
地元で取れるものを利用して、煙が少なく、簡単な設備で量産できる、廃棄するものを使うので薪のための伐採も減る

・ソーラ充電の補聴器・・・
従来の補聴器は電池式で、電池は高価、しかも遠隔地まで買いに行かねばならなかった。

・足踏みのポンプ・・・
畑に水を送り込むポンプ
Moneymakerpump

・住居用土ブロック製造機

・灌漑設備・・・
安価で拡張しやすいように出来ている。初期設置で利益が出たら、拡張し、また利益が出たら拡張し、と収入の循環が生まれやすい。

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2011年2月20日 (日)

【book martin 41928】 006-03カール・ポランニー『経済の文明史』 互酬について

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互酬という言葉はあまり馴染みがなかった、というより知らなかった。古代の社会や歴史の授業でクニの始まりをこんなふうに教わっていないだろうか。狩猟社会から農耕社会になって、収穫が安定し、貯蔵ができるようになったときリーダー的な者が現れ、仕切るようになり、それが豪族となっていった。どうだろう、こんなことがあたりまえだと思っていないだろうか。少なくとも僕はこういう認識だった。

簡単にいえば、互酬というのは与えて返してもらうというのがひとまとまりになっているような、相互扶助の関係のこと。ギブ・アンド・テイクといえばどこかに損得が含まれていたり、プレゼントとは色々なパターンがあるけれど、基本的に贈るだけで、バレンタインとホワイトデーのように贈り合いもあるけれど、返してもらうということを必ずしも前提にしていない。やっぱり現代に生きる僕には経済的な合理性や損得のような考え方が染み付いていて、共同体としての絆の交換というのがいまいちシックリ飲み込めなかった。ものの交換だと想像力に限界があってよくわからなかったけど、人の交換で考えたところでなるほどと思った。

互酬について納得できたのは柄谷行人「世界共和国へ」を読んだ時だった。今も残っている社会のタブー近親相姦はなぜ禁止されるようになったかという話が出ていた。巷では血が濃くなるとか遺伝子的な理由がよく挙げられるけれど、遺伝子などの科学的知識が発見されるより大昔から禁止されていることが今までどうも腑に落ちなかった。
「世界共和国へ」に文化人類学者で構造主義の祖と言われるレヴィ・ストロースによるなぜ近親相姦がタブーとなったかという話が出ていた。人は家族に属し家族は共同体に属していた。共同体で部落を形成し生活をしている。そこでは互酬の関係がある。つまり絆のある交換のようなものだ。自分が獲ってきた獲物は共同体の皆で分けて食べるのが当たり前、その代わり誰かが獲ってきたものを分けてもらうこともできた。こうやって生きる為のリスクを減らしす。そして、さらに生きる為のリスクを減らすには、大きな共同体との関係をもつことが必要になる。その為に女性は嫁に出された。そうすることで義父、義兄弟といった義理の家族が増える。それが共同体との関係を密にすることになるからだ。逆に言えば、近親に嫁いでしまうと、狭い範囲での関係は強くなるものの、共同体との関係は弱くなってしまう。生きるための方法、それが近親相姦がタブーとなった理由なのだ。

ポランニーは「アリストテレスによる経済の発見」の中で、ギリシャにはすでにかなり発達した経済システムがあった(最近の研究ではどのような通説になっているかはわからないけど)という通説に疑問を呈している。

'人間は本来自給自足的なものである、というのがアリストテレスの描く像であった。したがって、人間の経済は人間の欲望や必要の無制限性―今日の言葉で言えば、稀少性の事実―から派生するものではなかったのである。…中略…アリストテレスの考えは、商業的な交易は金もうけという不自然な、そして言うまでもなく、限界を知らない衝動から発生するものであり、価格は正義の規則に従うべきである(その実際の方式はかなり曖昧であるが)'

ポランニーは互酬時代(少し再配分も含まれているけど)の経済的な特徴について8点あげている。そもそも「経済が非経済的な制度に埋め込まれているような状態では、経済過程を見いだすことが困難」ということを知り、いまの経済環境を人類史上で相対化してみないといけないと思う。大雑把に書き出してみると以下のようになる。

1.「人間の生活の物理的な場を、経済のなんらか表見的な部分に関連づけようとしても、それができない場合、その人間の住みかーー彼の家庭とそれに接する環境ーーは経済的な連関をほとんどもたない。」

このあと女性人類学者マーガレット・ミードのニューギニアのアラペシュ族の話を引用している。狩猟民族のような生活をおくってるのであるけれども、そこには損得の観念のない現代社会では全く想像できないような話が書かれている。誰が獲ってきたから誰が食べるという考え方が存在しない。むしろ自分で殺してきた肉を自分で食べるという事が道徳的欠陥者とされる。他にも、家の部材は誰か他の人の家で不要となったものであったりする。だから、不要となった部材(たとえば垂木が長すぎるとか)を捨てることもない。

2.「数量性の欠落」についてはマリノフスキーという人類学者を引き合いに出して説明している。
a.「ひとつに無償の贈与というものがある。贈与という観念には返礼というものが含まれていた。なので丸損したと思うことはない。」
b.贈物は経済的に等価なやりとりがなされるのだけど、交易ということからみると意味をなさない交易がある。同じものを行って来いで戻ってきたり、まわり巡って戻ってきたり。何が目的かといえば相互の関係を緊密にすることであったりする。
c.もののやりとりをするときに不漁や凶作である場合は、量を減らすことができたりして、双方が充足しているということが原則として考えられている。また、中古品は人が使ったということが価値になるため、新品の方が不利と考えられる。
d.取引には社会的な関係が作用するので、不平等な取引が普通になる。

3.「所有権という概念がない」
同じものを何人もで共有する。一人が権利を主張することはない。

4.「経済的取引そのものは、血縁的共同体からはなかなか生じてこない」という書き方だとピンと来ないけれど、そもそも求婚、婚約、婚姻、養子縁組、奴隷解放といった事にともなって財の移動があり、それが取引するということの始まりになる。つまり「その人の地位を社会の文脈の中に確立する上で取引が発揮する重要性からみれば、二義的なものであった」のだ。まずは、土地、家畜、奴隷のように地位を示すような財が、地位とセットで動いたので経済取引といった取引を目的としたものは存在しなかった。

5.「多くの古代社会においてその富を構成するのは、財ではなくてサービスである。奴隷や召使や家来がそのサービスを提供する。…中略…物質的成分が非物質的成分よりも増えるにつれて、政治的手段による統制が後退して、いわゆる経済的統制に道を譲る。」

6.アリストテレスの哲学の中での幸福な人生の目的3つとは、1つ目が名誉と威信・・・位階と順位、2つ目は生命と身体の安全・・・敵や裏切りからの安全、奴隷の反乱からの安全、強者の圧制からの安全、3つ目が富・・・家宝や財宝をもつことの幸福。
つまり「貧困は劣った身分を意味する」もので、「低所得という純経済的な事実は視野に入っていない」ということ。農民などが経済的な観点から貧しいとされず、貧しいとされるのは「他人の命ずるままに働く」ような身分のことをいう。

7.「善(アガタ)こそ人生の最高の目的であり、もっとも望ましいものであり、かつもっとも稀なものである。」「善(アガタ)の希少性は、身分にも、特権にも、財宝にも固有の性質である。つまり、多くの人々に得ることができるようなものなら、善(アガタ)は善でなくなるのである。…中略…稀有の目的は、経済の次元のものではなく、この希少性は非経済的な次元から生じるものなのである。」

8.「人間生活のぎりぎりの基本的条件である、人間集団の自給自足性は、「必需品」供給が物的に可能なときに確保される。ここでいう物とは、生命を支えるもの、貯えうるもの――すなわち、長持ちするもの――のことである。…中略…飢餓や戦争の時、市民たち、家族の成員たちががそれらに頼ることができなければならない。」
とうもろこし、ぶどう酒、羊毛など蓄えられるものについては蓄えて、いざとなれば配給した。ただ、貯めるといっても、ある程度というのがあって、過剰に貯めるようなことはなかった。その昔は、欲望が生み出す余剰というようなものとの隔たりがあったということになる。

以上をかい摘んで見ていると、自分たちが当たり前のように経済的な価値に結びつけていることが、当たり前でない時代もあったということがわかってくる。生きるために家族や共同体をなし、自給自足性、公正のあった社会には現在の経済という合理性は全くなかった。ポランニーが非経済的というものが残っていた時代は、人間が生物である以上、できるだけ多くのものが生き延びるということが合理的であった。
ただ、こういったことが現在の社会には全くないのかといえば、かなりメタな部分で残っている。それに、この互酬が共同体を経て国家というところまで辿り着くのだけど、それはまた今度。あと、ポランニーは貨幣や市場のことも経済人類学から説明しているので、気が変わらなければ書きたいなと。

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2011年2月11日 (金)

【book martin 41928】 006-02カール・ポランニー『経済の文明史』 経済の実在的と形式的

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ポランニー『経済の文明史』を自分なりにどうまとめてみようか迷ったのだけど、キーワードを挙げてそれについて書いていくというのがいいかなと思う。

経済・・・実在的と形式的

ポランニーは、「経済」には実在的な意味と形式的な意味があるという。それらは融合されてしまって意識をされずに使われており、悪い影響を与えていると。簡単にいえば「実在の経済」とは生きるための交換であり、「形式的な意味での経済」とは「経済的」や「経済化」といった使われ方をする経済だ。

現代に生きる私達は経済というと利潤を求める交換であったり、節約であったり、無駄にお金を使わないだとか、お金の損得のようなところに経済という言葉を使っている。マイケル・サンデルが批判した功利主義や合理的というものの多くがこの「経済的」な思考に基づいている。でもこういった考え方はアダム・スミスにはじまる近代経済以降に登場したものであって、人類史上みると特別なものでしかない。

生きるための経済があったということは次のキーワード「互酬」で説明するけれど、経済の発端はとにかく生存するためにあったということを忘れるべきではないと思う。経済という言葉を使うとき、市場経済をさすことが多いと思う。でも、人類史でみれば非市場経済というものが長きに渡って存在し、生きるための交換が行われていた。獲物を得たらそれは誰のものとするでもなく、皆で分けて食べるのが当たり前だった社会があって、実はそれに基づいた社会が近代に入る前までにかなりの比重を占めていたということ。

一方の形式的な経済についてはこんな書き方をしている。「手段の不足性に由来する選択によって規定されるもの」だとか、「節約行為の連続、すなわち稀少性の状況によって引き起こされる選択の連続」だとか。ウ~ン、分かりにくい言い回し。形式的経済を合理的に考えた場合、選択するということは、そもそも手段が不足している状態を示す。喉が渇いたときは、一杯の水を飲む、病気で動けない人には、誰かが看護する、これと同じこと。ただもう少し補足すれば、不足とは必要に対しての不足でもあるけれど、不足と感じれば不足していることになる。雑誌をみたらかわいい服があって、この冬はこの服がないと取り残されたような気分になる、というのならそれも不足ということ。ポランニーの言葉で言えば「不足のないところでの選択があるように、選択のないところでの手段の不足も存在することが容易に理解できる」というふうになる。そして、情報や刺激が無限に溢れる社会では「手段の豊富さが、選択の困難さを減らすどころか、増加させている」わけだ。

人間の経済というのは「経済的な制度と非経済的な制度に埋め込まれ、編みこまれている」という。僕らは経済をずいぶんと狭い意味でしか使っていなかったように思う。
最近、大森区と蒲田区が合併して、一文字ずつとって大田区ができたということを知った。ずいぶん味気ないミックスをしたなと思った。たしかに森蒲区とは言い難いけれど、汎用性の高い方の文字同士を組み合わせることもないんじゃないかなと。。。経済という文字もずいぶんと冷淡に感じるし、年々そのイメージを増しているようにも思えるけれど、元はもっと血の通ったものだったんだなぁ。。。

(続く)

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2011年1月27日 (木)

【book martin 41928】 006-01カール・ポランニー『経済の文明史』

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経済というものは、どんな化物なんだと思っているのは僕だけではないと思う。この化物のことを皆が知りたいと思っている。経済というものは生活の根幹にあるもので、あらゆるものが経済的な仕組みによって成っている。それは生きることに関わる物ような部分から、社会制度の根幹にもなり、はては仮想空間のようなところまでも。経済の問題は簡単に答えの見つかるものではないのだけど、それでも少しづつ考えていきたいと思っている。

ポランニーの基本的な考えは、経済は社会の中に埋もれたものだということなのだけど、やはりそうだと思う。いや、正確には思いたい。ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で世界を見てみろ、民主主義の国はみんな経済的に豊かじゃないか、でも逆はないだろみたいなことを書いていたと思う。けど、はて?と思いながらも読んだころの僕は上手く相対化できなかった。経済というものを少しづつつまんでいると、経済は成長し続けるという神話があまりにも大きすぎる気がする。

やっぱり経済をもっともっと引いた位置から、つまりは歴史的に俯瞰して見てみてみたくてこの本を読んだ。今の経済、もう少しはっきり言えば市場経済は人類史上どのように位置づければいいのかを知りたいと。

ポランニーは「経済は社会に埋もれたもの」だという。経済学というものだってせいぜいアダム・スミスから始まるわけだし。ちなみに『国富論』が1776年なのだから、かれこれ2世紀半も経っていない。とすれば、いまの世界って社会っていうのがそもそも人間にとって当たり前なのか否かは一度疑ってみる価値はあるんじゃないかな。仮に今が割と最適な状態であったとしても別の形態が存在していたということを知っていてもいいんじゃないかな。
なんでそんな事をいうかといえば、日本人の道徳とか価値だとかがあまりにも経済中心になってしまっているからなんだけど。

マックス・ヴェーバーがルターに始まるプロテスタンティズムの勤勉さがエトス(精神の柱となるような行動の原理のようなもの)となり資本主義を加速させたという。もちろんそこに産業革命があったこともある。日本人の場合、宮本常一さんあたりから始まって網野善彦さんがいうように日本は百姓=農業ばかりではなく、江戸時代から商業や産業が存在していて、資本主義へと発展する素養は十分にあった。でも、日本にはプロテスタンティズムのような絶対神を核とするエートスはなかった。そこで伊藤博文あたりが天皇を現人神とすることで、資本主義のエートスを日本に作った。戦後天皇は人間となりエートスはなくなり、日本国民はアノミー(宙ぶらりん)となった。

中心を欲した日本人は経済成長にかけた。そして世界第二位の経済大国となったまでは良かった。その地位からズルズルと下がりながらも、いまだに経済大国日本こそ真の姿という幻想が拭えないでいる。経済は成長し続けるという陽炎の如き仮説にしがみつく。いまでもアメリカの後を追いながら、経済の伸び代を血眼になって探す。
こないだも書いたけど、日本には日本流の良さがあっって、西欧発のキリスト教発の資本主義とまたひとつ違った経済の仕組みというものがあり得てもいいんじゃないかと思う。

アメリカは大戦中にサポートに回りながら戦火を被ることなく、金(きん)を集め、戦後はマーシャルプランでドルで援助をし世界にドルをばらまいた。これによってアメリカはドルを基軸通貨に据えることができた。そしてブレトンウッズ体制でドルは金に準拠し、安定した通貨であると宣言して、基軸通貨としての位置付けが完璧になった。もうドルは金にペッグしませんというニクソン・ショックまでアメリカは計算づくだったという話もあるけれど。
アメリカが政治でも経済でも覇権をとった頃から時が経ち、今過渡期に入っている。確かに市場経済がいくらグラついたいたものとはいえ、その外へ出ること、あるいはその次の発展的な制度へと移行することは今のところ相当飛躍した議論になるのかもしれない。ただ世界は変革の時期であって日本では天皇が変わることが一時代となるけれど、今世界史的な一つの時代が終わりつつあり、アメリカから次なる覇権への移行が始まっている、どの国かといえばそれは中国になるという説が強いけど、多極化の時代だとか無極化との説もある。


話がごちゃごちゃしてしまったけど、要は経済というものを根深いところから考えなおしてみるべきで、今は考え直すべき時であるということ。前置きだけで話が長くなってしまったので、本題は次回から。。。(つづく)


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2011年1月 8日 (土)

【book martin 41928】 005-02 小室直樹『日本人のための宗教原論』『日本人のための憲法原論』

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(年をまたぎましたが、続きです。)

実はこの予定説を理解することが資本主義というものを理解するための一つのベースとなるのです。
ヨーロッパは資本主義の発展ということから考えると後進国でした。そもそもキリスト教では儲けるということについては、肯定的ではありません。マックス・ヴェーヴァーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」の中で、予定説がなぜ資本主義のエートスとなったのかを説明しています。
その前にまず、「天職」という考え方を理解しなければなりません。ただし日本人の天職という考え方とはだいぶ異なりますので要注意。日本語なら例えば、この仕事は私の天職だと思いますといったとき、これは二つとない自分にとてもあっている仕事だ、というような意味で使われます。一方キリスト教での天職とは、神が与えてくださった仕事ということです。ということは、その仕事が自分にあっていると思っても思わなくても何かしら神が私にこの仕事を与えてくれる理由があったはずで、私はこの仕事に感謝して懸命に努めねばならない、となる。
宗教改革の以前から天職という考え方はありました。でもそれは主に修道院の中での話でしかなかったんです。それがルターとカルヴァンが宗教改革をしたときに、民衆へと広まっていきました。すると予定説のエートスが精神的なエンジンとなって見る見るうちにどんどん富を生むこととなった。なぜなら、プロテスタントの下では本来のキリスト教への回帰を目指してより禁欲的な生活が強いられた。もちろん金儲けは汚いものとされていたのだけど、人々は日々一生懸命働き、節制した生活をすることが善とされていたわけですから、ますます働く。するとお金がどんどん溜まっていった。たしかに産業革命というハードの革新もあったのですが、この予定説というエートスつまり根本を司るプログラミングがあったがゆえに西欧での資本主義の発展があったのです。
ですから逆にその視点で日本を見てみるということが必要で、それは後で書こうと思います。

そしてもう一つが契約という概念で、こちらも日本人には馴染まないものです。日本で生活していると社会へ参加するようになるにしたがい、契約を交わすようになっていくと思います。日本もビジネス上の契約がしっかりしてきたとか、古い業界だからナーナーな部分が残っているとかそういうレベルでの話ではなく、もっともっと根深く習慣としてあるものなのです。そもそも誰との契約なのでしょうか。そう、神との契約のことなんです。契約というと、人と人つまり横のつながりでの契約と考えてしまいますが、それ以前に神との縦の絶対の契約が存在しているのです。
旧約聖書には、神に背くとどんなに恐ろしいことが起きるかが書かれている。キリスト教圏で育つ子は、小さな頃から新約とあわせて旧約も読むそうで、この契約の概念が刷り込まれ、契約がエートスとなるのだと。たしかに政党のマニフェストもこの契約の文化あってこそのものなのでしょう。日本には、議員にも有権者にもどこか頑張ってダメなら仕方なしであるとか、自分だけ地元だけよければいいやという考えがある。政党が有権者に対してマニフェストを提示して、そこには契約というものが微塵も見えてこないのは、全くをもってこのエートスの違いなのだと思います。

このようにキリスト教は民主主義と資本主義のエートスなのです。一方、日本には絶対の神はいないのだから、いつまでたっても民主主義やが成立しないのは当然といえば当然なのかもしれません。
ただ、かつては日本にもこのキリスト教のエートスに価するものがあったのです。いつまであったのか、それは敗戦まで。そう現人神天皇がキリストのような存在でした。明治から敗戦までの日本には、民主主義と、資本主義がうまく機能するかもしれない要素があったということになります。
実はこの思想を仕組んだ人がいます。それは初代内閣総理大臣伊藤博文です。彼はすごく頭が良かった。深い洞察のある人であったのでした。欧州へ視察へ行った際、資本主義と民主主義が産業革命や議会の仕組みだけでは決して成立し得ないということを見ぬいたのです。そのエートスにキリスト教が存在するということを見抜きました。その彼が作った宗教こそ天皇教なのです。

最近読んだ村上隆『芸術闘争論』で、敗戦の少し前から現在までの歴史(芸術史)をよく知った方がいいといっていました。この本はとても面白くて、現代ARTという不可解なものの構造をすごく分かりやすく説明してくれているのですが、そこで村上隆がそういうわけです。これはARTに限っての話ではないと思います。芸術が評価される、つまり価格がつくわけです。そのルールが戦後は英米を中心作られた。一方の日本はどうか、簡単にいえばアノミー(宙ぶらりん)なわけです。戦後の日本はとにかく規制をから解き放たれる、自由になるということばかりがクローズアップされた。天皇教も戦争と合わせて非難されたわけですが、少なくとも資本主義と民主主義という面から見た場合、悪いことばかりではなかったわけです。
村上隆さんはこの著書で日本の芸術に根深い「芸術家=利益を求めない」「芸術家=自由奔放」という神話を再三嘆いています。自由というものが力を持つのは縛りがあるからです。君主国家であったり規制であったり、そういうものに対する自由を消極的自由といいます。政治や経済、社会の問題でも日本は米国よりの自由奔放さばかり取り入れています。グイグイ押されるものがあって、自由だと言って押し返すくらいがちょうどいい。今の日本は自由側から押したり、暖簾に腕押し状態。自由主義者のハイエクは共有する前提が多いほど人は自由になれると言っています。グイグイ押さえてくるものを知っていれば自由になれるのです。
この日本人のアノミーは高度経済成長によって一旦は紛れていました。経済、お金という指標で誤魔化すことができた。でもバブルのあと、アノミーがもろに表出してくる。それが経済的理由による自殺者の急増といった現象になる。

この他にも、なるほどと思うことがいろいろと書かれていますが、民主主義と議会について少し。
民主主義は素晴らしいとされているけれど、ずっと良いイメージがあったわけではなく、戦後しばらくは悪いイメージをもつこともあったようです。なぜなら民主主義は独裁者を生みやすい。ヒトラーは民主の支持を得て、国家の全権を握りました。遡ればナポレオンや、ローマのカエサルもそうなのです。衆議院と参議院があって、参議院はその昔、貴族院でした。海外にも上院や下院があり、上院はやはり貴族が構成しています。貴族というのは旧来の既得権ということで今ではあまり良く思われない。でも、このこの貴族院があることで、人気者に集中しやすい民衆や、国王の暴走を喰い止める役割もあったのです。
ただ、議会制をとる場合、そもそも違った要求を持つ者どうしがぶつかり合うから議論になり収斂して進展していくはずが、今の日本などは同じような立場の人で両院を構成しているわけですから何にもなりません。ましてや政党だって同じこと、いまや政権を取ることが目的になってしまっている。
アメリカは上院下院の議会と、大統領という二重の構造にすることでこのバランスをとっています。アメリカ国民は民意を反映するものとして大統領選挙をとても重要に思っている。だからこそ、あえて選挙期間お一年もとり、候補者の良い部分、政策、ボロがもすべて見極めた上で投票できるようにしているのです。

資本主義と民主主義の成立にはキリスト教のエートスが欠かせない、というかこのエートスあってこそのものだと、小室直樹さんは再三いいます。先述したように、民主主義にも危うさがあり、資本主義についても危うさが出てきた。じゃあ他に何があるのかといえば、すぐに答えが出るものでもない。ただこれから先、欧米を中心としたヘゲモニー(覇権)がアジアへとうつっていくときに、日本なりのものを意識しなおしてみることは無駄ではないと思います。つまり、日本人にもエートスがあると思うのです。それは資本主義や民衆主義には合わないかもしれないし、今の世界の流れと反するものかもしれない。でも日本が世界に名を轟かせたのがたかだか戦後五〇年なのだとすれば、もう少し大きな時間軸で日本流の社会なり、政治なり、経済もあるのではないかと思います。このへんはもっともっと勉強しなければなと。。。

タイトルでは『日本人のための宗教原論』『日本人のための憲法原論』と二冊を上げましたが、憲法原論の方を中心に書きましたが、この二冊は読んでみてください。今は変化の時で時事ニュースもめくるめく流れていきますが、ぜひ。
イスラムについても知りたいなと思っています。イスラム教は今でも利子をとってはいけなくて、中東の金融機関には利子がないところがあるそうです。グラミン銀行でもなく、ゲゼルの貨幣でもなく、また違ったものがあるのかなと思います。

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2010年12月30日 (木)

【book martin 41928】 005-01 小室直樹『日本人のための宗教原論』『日本人のための憲法原論』

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次に紹介したい本というか人物がいるのですが、その前に簡単な前振りとなるもの書きたいなと思って書いてみます。年末年始に時間のある方は、この2冊を読むと日本のこと、世界のことについてすごく根本的なものをつかめると思います。会話調の文体もとっつきやすいし、こんなに分かりやすく世界の根本を知ることができる本はなかなかありません。でも皆様ご予定で忙しいと思いますのでダイジェストしようと思います。ニュースや文化、芸術を理解するときにも役に立つと思います。

よく勘違いをされるけど、民主主義の基本は間違っても多数決などではないんです。民主主義の基本は平等であることであって、多勢に無勢なんて言語道断、小さな意見でも汲み取る機会を与える事が民主主義なのです。多数決というのは、民主主義と全く関係なく、議会を円滑に、速やかに決断するために行われるようになったものでしかありません。ではこの民主主義なぜできたのかといえば、それは平等の精神です。といっても平等というのは、言うが易しでなんとも厄介な言葉です。なのでここでは、他人の自由を侵さない程度で考えてみてください。
日本では民主主義が一番だという話ばかりがまかり通っています。でも、民主主義というものがあまりにも曖昧なまま、なんとなく国民の意向が一番反映されやすいものと思われている。僕自身もそう思って、それ以上をきちんと知ろうとしてきませんでした。
今の国会を見ていると、きちんと議論するというより、利害の一致する人とつるんで賛成多数に持っていくというような、民主主義の根本である平等の精神なんて微塵もないように感じる人も多いのではないでしょうか。でも、それもそのはずなのです。そもそも民主主義の根底にはとても大きなものがあるからなのです。
それは何かといいますと先に述べた平等なんです。何を基準に平等かといいますと、神の下に平等なのです。絶対の神の下では、社会的な地位や貧富の差は関係ない。神のもとに、国王から庶民までみな平等ということです。ですから、日本人にはそういう一致はないのですから、少数政党の意見に耳を傾けようなどということにはなりにくいのです。空気が支配したりします。

この神はもちろんキリスト教に由来するものなので、民主主義そしてその双子である資本主義を理解するには、キリスト教がもたらすエートスというものを知らなければなりません。
エートスというのは、習慣というか行動の原理のことです。こういったら分かりやすいでしょうか、一日は24時間ありますが、多くの人にとって基本的には日の出日の入りを基準にして生活のパターンがある。大方の人は昼間を基準に仕事をしているというのはひとつのエートスと言えると思います。ですからキリスト教のエートスといえば、キリスト教の信者あるいはキリスト教圏で生きる人の生活パターンの大前提となっているようなことを言います。

ではそのキリスト教のエートスを理解するために何を知らなければならないのでしょうか。それは「予定説」と「契約」です。これを理解していないと、何もわかりません。
まず予定説についてです。キリスト教では神は絶対で完全で、すべてを知る存在です。人の人生の過去から未来まですべて神の意志によってつくられると考えられています。人間は将来を不安に思いながら生きていきますが、神は未来もご存知でということになる。さらに一歩進むとこうなる、すべての運命を司る神は勿論救う人も決まっている。簡単にいうとそれが予定説なのです。だから何と思われるかもしれないのですが、これがすごいのです。
受験のように点数という形で努力が反映されるものであれば、人は頑張ります。仕事の場合はもう少し成果というものの評価が複雑にはなってきますが、ある程度のこうであるべきというものがわかりやすいし、努力のしがいもある。では、神に救われたいという場合は、神の意向に沿ったこと誠実にこなしていけばいいじゃないか、と普通に考えたら思うでしょ。でもそこがミソで、ある意味すごいし、恐ろしさえ思える部分なのです。実は、キリスト教にはこうすべきということはないのです。
どういうことっていまいち思われるかもしれません。自分の実生活や仕事に重ねて想像してみてください。もし新入社員だったら右も左もわからず、その会社のルールを理解するまで、先輩方を伺いながら行動すると思います。救済されなければどんなに恐ろしいことが待っているかもしれない。そんな中で、もし正しいとされることがわからない、けれど神の意向に沿って正しいことをしている人は救済されるとしたらどうしますか。兎にも角にも正しいと思えることをしようとするでしょう。もし隣で自分より正しそうに思えることをしていれば、少なくともその人くらいのことをしなければ、となっていきます。決まっているなら頑張らなくてもいいやとなるかといえば、人は自分こそが救われる人であると信じたい。するとむしろこのような逆のことが起きてしまうのです。

(つづく)

 

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2010年11月 4日 (木)

【book martin 41928】 004 森村泰昌『芸術家Mのできるまで』

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そう前回の密教の話から芸術家の話に。
つながりは頭文字がM・・・ただそれだけ。

これは芸術家M(森村さん)の話で、
ぼくもMなのだけど、気の強い女性が好きだからもしかしたらそうかもしれないけど・・・
って、そのMじゃなくて名前のイニシャルがMなだけ。

この本は何かといえば芸術家Mが売れっ子になるまでの話が書かれています。
何が良いかといえばネガ、ネガそしてネガの暗ーい暗ーい男の話が、気付けば屈指の現代アートティストというポジな存在になっているということ。

この本は様々なネガとポジがからんでいる。
ネガとポジ・・・写真のネガとポジ、性格のネガティブとポジティブ、社会の勢力のネガとポジ、常識のネガとポジ、凹と凸、オンナとオトコ・・・そしてその疑うべき大前提『ネガ=劣』『ポジ=優』

Mの有名な作品はM自身が女装したポートレート。ゴッホの真似も有名だけど、女装の彼がMらしさ。
ネガがネガのままで生き延びる為に一所懸命してきたことがポジに変わる。そんなプロセスが本のあらまし。

すごくオモシロい章があって、それはこんな内容なのです。
東大の駒場900番教室でMがMM(マリリン・モンロー)に女装して、スカートをヒラヒラさせ、パンツを脱いで放り投げた話。
実はこの教室は作家M (三島由紀夫)が全共闘と戦った場所なのです。その作家M縁の場所を芸術家MがMMとなって現れる。
しかも素晴らしい論理を披露するのです。

M天皇(明治天皇)は幼少の頃、幕府に配慮してオンナとして育てられた。
即位した後は、誰もが知っている毛むくじゃらのオトコとしてのM天皇がいる。

ここには日本がオンナからオトコになったことも重なる。
でも結局オトコになれないオンナ。
日本はいまだにオンナ。

作家M(三島)か弱いオンナのような子供だった。そんな彼はからだを鍛えオトコになった。そしてオトコになれなかったオンナの日本によって殺された。
一方女優MM(モンロー)はまさしくアメリカンドリームだった。でもアメリカンドリームに殺された。オンナであり続け、アメリカというオトコに殺された。

オトコに徹して死んだ作家Mとオンナに徹して死んだ女優MM。

どうやらオトコの背後には死が待っている。
そんな、わけのわからないようで物凄く真に迫った論理を芸術家Mが900番教室にてスパークさせた。

ああMよあなたは何て、素晴らしい。

福岡伸一さんによればオトコの生命的役割は遺伝子を運ぶだけだから、オトコが生きのびる必要がないわけで・・・。
明らかにオンナが時の流れを作っていて、オトコがいくら社会の仕組みをいじってもオンナの作る生命のシステムにはかなわない。

この本から生きる秘訣を読み取るとすれば、正負の掛け算と同じかもしれない。
ネガをどうにかポジにしようとすれば、ネガのまま・・・(-)×(+)=(-)
自分の人生を振り返っても、ネガをポジにすることってあまり上手くいかない
周りを見てもそんな気がする

Mはネガをネガでやり続けることでポジになっている・・・(-)×(-)=(+)
でもこれは相当な変わり者でないと難しいかもしれないけど
言わばポジは強いもの或いは成功者の論理、ネガは弱いもの敗者の論理。
でもネガの徹底(-)×(-)=(+)を続ければポジになる。ネガな自分でいられるための方法を考え実践していく。ポジの側へ行きたい、故にポジの方法を使いたいという気持ちを抑えてみる(森村さんの場合はポジの側へ行くことを完全に諦めていた)。それが大切なわけで・・・。

じゃあ芸術家Mはどうしているか、例えば一例を示すとこんな感じ。
芸術家Mは講演を頼まれことがある。人前で話すのが大の苦手の芸術家M。でも彼はきっちり講演を終える。なぜできたのか?ポジの方法としては、プレゼン上達法の本を読むとか、スティーブ・ジョブスのまねをしてみるとか、コーチしてもらうとか・・・かな。
じゃあ芸術家Mはどうするか・・・。丸暗記・・・全てを。プレゼンの上達法の本を見れば大体の本に書いてあるのは、丸暗記はヤメナサイ。芸術家Mはまさにそのネガな方法を実践する。でもそれだっていいわけだ。そもそも別にジョブスになれなくっても。成功者の後を追うことは、近道かもしれない。でもそれは本当か・・・そんなことをポジの社会の思い込みなのかもしれない。

何をやっても上手くいかないようなネガの塊の妄想人間が、ポジになる様子ぜひお楽しみください。
弱さこそが強さなんだみたいな主張はあるけれど、それが現実の人として証明されているようでオモシロい。
でもそうでしょう強いものが作る歴史には終わりしか待っていない
ネガにはMM(萌える未来)がある。歴史は実はネガがつくっていると思います。

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2010年10月30日 (土)

【book martin 41928】 003 松長有慶『密教』

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密教について書こうと考えていた。なんとなくどう書き出すかと考えていた。
果てしなく続く宇宙への拡がりと、内へ内へと生々しく迫る深さが渾然とシンクロする密教について・・・とか考えながら
とある日曜日の朝に、テレビつけたら壇ふみ×藤竜也×阿川佐和子で四方山話をしていた。これが結構面白く、ついつい見入ってしまう。
そこで壇ふみがいきなり藤竜也に「押し倒したいですか?押し倒されたいですか?」と切り込んだ。藤は一息分の間をおき「押し倒したいですね」と答えた。二人の奔放な女性主導で流れる、恋愛だの結婚だの家庭だのといった本音トークがリズミカルに交わされていた。

「押し倒したいですか?押し倒されたいですか?」ということを密教なり考えると少しオモシロい。まず、一つわかりやすいことで言えば、仏教では本来淫行を禁止しているのに対し、密教では問題がない。インド後期の密教では修行の一部でさえあったといわれている。密教は肉体へ生命へと迫る論理を超えた思想をもっている。
犯罪的な場合を除けば、押し倒す/押し倒されるという形に自他を完全に区別することはできない。押し倒したい/押し倒されたい、という言葉には既に相手が含まれているし、その場の雰囲気がに押し倒し役/押し倒され役を決めるようなものだったりもする。…となってくれば倒す/倒されるという境は曖昧となり、俺昨日押し倒す(れ)たんだ、みたいな…。
少しふざけ過ぎたけれど、密教は西洋のように二項を区分という考え方はしない。白も黒も元は一つのグラデーションの一部でしかない、そんな一元論なのだ。ただし、西洋の一元論とはだいぶ違うので最後に触れようと思う。

今回は密教の核心には迫らない。いや正直言って迫れない…それは自分がまだまだ勉強不足だから。読書を重ねて、少し違った形で迫っていきたいと思う。なので、本書松長有慶『密教』ではざっと密教の歴史を眺めるのと、密教のイメージについて書こうと思う。

インドで誕生した密教だけど、今現在残っている地域は日本とチベットのみで、発祥の地インドや仏教を発展の地中国では途絶えてしまった。このなぜ途絶えたかポイントになる。
仏教誕生前のインドにはバラモン教とヒンドゥー教があった。バラモンは上層階級にヒンドゥー民衆にそれぞれ信仰されていた。密教も仏教と同じようにこれら土着の宗教を吸収しながら発展していく。これは曼荼羅にヒンドゥーの神々が描かれていることからもよくわかる。インド後期密教になってくるとヒンドゥーの聖典タントラの影響が大きくなりかなり過激な部分を持ち始める。
顕教に対して密教というくらいだから、仏教界のサブカルチャーのようにも思えるけど、実はこちらの方が原始的でシャーマニズムのような呪術的で体験的な部分を担ってきた。担ってきたというのはどういう意味かといえば、論理的な部分と相補する形で密教があったということ。小乗の有部、経量、大乗の唯識、中観という各派が論理的側面で違いを見せながらも密教的な呪術的な部分は同じようなことを行っていたという。
密教は呪術や祭祀儀式の中から徐々に体系化されていく、8世紀に最盛期を迎え、このあたりまでを前期インド密教という9世以降は後期インド密教といわれ、11世紀当たりには消滅する。密教が衰退したのは、後期インド密教のタントラを取り込み過激さ増した為。例えば、女性との淫行、排泄物を食べる、人肉を食べる、殺人、墓場での発展、社会への迷惑行為と聖から俗へどころか族からも背いていった。そして13世紀ごろイスラム教徒の流入により消滅する。

前回(002)で密教がなぜ中国で消滅し、日本には残っているかという疑問が残っていたのだけどそれはこういうことだ。中国での密教は9世紀頃を境として衰退していく。そもそも中国に入ってきた密教はインドのそれと異なっていた。インドから入ってものをそのまま広めるのではなく、中国の僧たちが自国に適合させる、つまり編集したものを流布させていたのだ。けれど、9世紀以降インド後期密教が脱世間色を強めたため、編集作業が追いつかなくなってしまいとても世間に受け入れられるものではなくなってしまった。そのために衰退の一途をたどる。
一方、日本の密教が今日まで長らく生き残っているのは、空海と最澄が持ち帰ったのがインド前期密教だったからだ。空海が恵果に師事したのは中国で密教が最盛期にあったときで、タイミングがちょうど良かった。空海の真言密教を東密といい、最澄の天台の中の密教を台密という。しかしどちらもあまり発展はしなかった。鎌倉仏教はそれぞれに大衆へアプローチしていく為のロジックを生み出していった。念仏しかり、各地の在来神は仮の姿で本性は仏や菩薩であるとする本地垂迹説などもしかり。けれど密教は俗であってはならず、そのためにはその波に乗れなかった。

本場のインド密教の形に近いままで残しているのはチベットだけだ。チベットにはインド後期密教も伝わり、一旦は堕落しかけるも、14世紀頃戒律を厳しくするなどの改革を行い現在に至っている。厳しい戒律を定めたのはゲルッグ派といいこれがダライ・ラマまでつながっている。

インド密教が発展すると共に常識からかけ離れていったのは、生命としての一体感を極める為だった。精神と肉体をから延々とその肉体と情動を感じる宗教としてあり続けたわけだ。仏教を含めて何を学ぶべきかといえば、論理を超えた関係性だと思う。密教は人間と宇宙、ミクロとマクロのコスモスが一体となる思想を持っている。

冒頭で触れたように密教には独自の一元論がある。独自とつけ加えるのはもちろん西洋の完全な中心を据えた一元論に対してのこと。密教が一元論であることは大日如来を中心に据えた金剛界曼荼羅を見てのとおり。でもこの一元論は上手い具合に入れ子状になっている。密教が人体と宇宙の同化を目指すのと同じく、この曼荼羅も人体であり宇宙をあらわす。例えるとこんなイメージかもしれない、新宿駅を颯爽と歩く人々、その一人ひとりが曼荼羅であるということ。なんというか曼荼羅の中心に到達すれば、そこはまた無数の曼荼羅が広がっており、新たな到達を目指すべき曼荼羅の最外辺にいるようなものかもしれない。大乗は利他から自利を目指すものだから、外部を目指すことで自らの真理へ導くと説く、まさにそれを示している。

最後に少し付け加えたい重要なことがある。それは、今ある如来や菩薩は殆んど密教から生まれたものだという事実が示しているのだけれど、そのメタな部分には密教が大きな横たわっていること。現代日本の仏教は鎌倉以降に生まれた日蓮宗、禅集、浄土宗などが主流であるけれど、それらは空海や最澄がもたらした密教を越えて生じえたものであることは忘れられている。
先の如来や菩薩は密教が生んだといったけれど、それは密教には考えや言葉を具現化すべしという理念があるからだ。そんな密教美術はすさまじくパワフルで結構気になっている。派手な色づかいに、激しい表情、目はおどろおどろしく、今にも怒りの言霊が迸る口。そうそう松長さんもロゴスを超えたパトスがあるって言っていた。そろそろ理路整然とした考え方は、時代遅れになってきたと皆が感づいているのだけど、なかなか超えられぬ実情。利益を確保するか故にナッシュに陥った社会は、取り返しのつかないとんでもない痛打によって、利益を手放さざるを得ない事態によってしか、もはや未来は生じえないようにも思える。

何で密教について知りたかったからかといえば、やはり弘法大師へと向う踏み台にしたかったからだ。空海について自分なりに書いてみたい、そう思っていくつか本を読んだのだけど僕の手には負えない。自部の言葉にならない。故に、一度退却すべく密教というMからあるMへとつなげよう。そう次回のMは退却した、つまり逃げて逃げたあるMを紹介したいと思っています。

ただ時折、仏教については立ち返る予定。最近、法然房源空が革命的人物であることを知った。専修念仏だと法然より親鸞が重要視されるけど、この法然が実はすごい。この法然の出現は仏教という範疇にとどまらない、現代に通ずる転換をもたらしていた。そんなことも今後書いてみたいと思う。

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